広島原爆体験記

これからご紹介するのは、A4で38ページに及ぶ被爆者の証言である。
「幸運にも九死に一生を得た私は、あれから五十年もの長い年月を生きさせて頂いた」
「私が、あの時無傷で助かっていながら、行方(ゆくえ)不明になった生徒たちがおり、また重症の生徒は死亡したのである。このことの重みは、ずっしりと私の心にのしかかり、この五十年間消えうせることはなかった。私は、私の命が尽き果てるまで、この責めを負(お)って生きなければならない、と心に深く刻(きざ)み込んで生きてきた。」

「何と言っても四十八年前に記したものが、原稿用紙は黄ばみ、古びてはいるが、私と共にこの家に潜んでいて、そして今、役に立ってくれたことを感謝したいと思う。」
「そしてこの記録に託した私の小さな声が、世界平和への叫びとなるよう、心から祈りたい。」

 前書きからの引用です。
以下、数回に分けてご紹介させていただきます。また、引用に当たり、一部ふりがなをつけさせていただきました。打ち込みのミスなどご指摘いただければ幸いです。
 町田平和委員会ホームページ管理人より

広島原爆体験記
――あの日から五十年目の回想--  東岸初江
(当時二十二才 広島市立広島進徳高等女学校教諭)
はじめに 
 ご存知のように、広島に原子爆弾が投下されたのは、昭和二十年の八月六日、月曜日の朝八時十五分であった。

 当時私は二十二才で、広島進徳高等女学校教諭として勤務していた。その頃学校ではほとんど授業はなく、進徳高女も四年生は学徒動員令によって、すでに東洋工業や、日本製鋼などの軍需工場へ出勤していた。そして戦局も次第に悪化し、昭和二十年にはいよいよ三年生にも動員令が下った。

 進徳高女の三年生は、三月から広島貯金局と広島電話局に出勤と決まったのである。

 広島貯金局の本局は千田町にあったが、その分室というのが、八丁堀の福屋ビルの七階と五階にあった。私は担任の生徒を引率(いんそつ)して、そちらの分室へ行っていた。従ってあの六日には、八丁堀の福屋分室において、生徒と共に被爆したのである。

 福屋ビルは、倒壊(とうかい)は免(まぬが)れたが内外共にすっかり焼けてしまった。このビルでは相当数の人が働いていた筈(はず)であるが、一体どの位の人が無事避難しえたのだろうか。幸運にも九死に一生を得た私は、あれから五十年もの長い年月を生きさせて頂いたのである。

 しかし、教師であった私が、あの時無傷で助かっていながら、行方(ゆくえ)不明になった生徒たちがおり、また重症の生徒は死亡したのである。このことの重みは、ずっしりと私の心にのしかかり、この五十年間消えうせることはなかった。私は、私の命が尽き果てるまで、この責めを負(お)って生きなければならない、と心に深く刻(きざ)み込んで生きてきた。

 さて今年は、被爆五十周年ということで、「未来への伝言」として体験記を書くことになった。広島や長崎で被爆なさった方々の体験記が、たくさん発表されているようであるが、自分の眼で捕らえたもの、感じたこと、体験したことは、例え同じ場所にいたとしても、それぞれ異なると思う。そこで私は、私自身のものを忠実に記したいと思うのである。

 実は、私は昭和二十二年頃に、私自身の被爆体験を、八月六日の「長い一日の日記」として記録しておいた。その記録をそのまま本箱の奥底に仕舞(しま)い込んでいたが、後年、結婚の荷物の中にそれを入れて、広島から上京したのである。

 上京後は専(もっぱ)ら生活に追われ、その記録を開いて見るという余裕(よゆう)などとてもなかった。いつの間にか年月が過ぎ、昭和五十二年、三十三回忌に当たる年を迎えた。この頃になって、私は遅れ馳(ば)せながら、あの記録を清書して、亡き生徒たちの御霊(みたま)に捧げたい、という思いがつのり、それを義務とさえ思うようになった。

 そこで、最初に記録した古い日記を基に、もう一度確認し、忠実に表現したい、という思いをもって書き直したのである。とは言え、家事の暇ひまをみての仕事であったから、遅々(ちち)として進まず、やっと書き上がったのは、五十二年も暮れ近い頃となってしまった。

 戦後、日本が大きく変革しているうちに、半世紀がたち、昨年は仏教で言う五十回忌に当たる年を迎えた。そして今年平成七年は、被爆五十周年と、大きな節目を迎えるに至った。

 この節目を機に、再び体験記を書くという深い意味を思うとき、老いを迎えた私としては、この機を最後に、「亡き生徒たちの御霊に捧げたい」ということと、この五十年間、ずっと私の心に念じ続けてきた「生徒たちへのお詫(わ)び」という切なる思いを込めて、この体験記を書きたいと思う。

 この記録が、後の世の人々の眼に触れるとなれば、私自身が勝手な解釈で、また安易な想像で記してはならないと思い、古い記録を再び見直し、足りない点を補い、客観的な説明を加えるべき点をも考慮して記したいと思った。

 半世紀を経た今も、あの悲惨な情景は鮮明に甦(よみがえ)っては来るが、物忘れや記憶の薄れを自覚する年となっては、覚束(おぼつか)ない点も多々あるのである。しかし、何と言っても四十八年前に記したものが、原稿用紙は黄ばみ、古びてはいるが、私と共にこの家に潜んでいて、そして今、役に立ってくれたことを感謝したいと思う。

ここに改めて、なくなった生徒たちの御霊にこの記録を捧げ、ご冥福(めいふく)をお祈りしたい。

 そしてこの記録に託した私の小さな声が、世界平和への叫びとなるよう、心から祈りたい。
 平成七年(1995年)夏

目次
広島貯金局、福屋分室
窓と壁
八月六日の朝
光の海
空白の時(I)
空白の時(II)
太陽が見えない
生徒の声
重症の生徒を見つける
血糊(のり)の七階、血糊の階段
福屋ビルからの脱出
八丁堀の惨状(さんじょう)
火傷(やけど)した人
瓦礫(がれき)の道
同僚との遭遇(そうぐう)
市内電車の骸(むくろ)
饒津(にぎつ)神社
重症の生徒に水を
牛田の山
竹と筵(むしろ)で担架(たんか)を作る
八月六日の夜
テントの救護所
古い乳母車(うばぐるま)
生徒との別れ






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