独りだけの死は怖いよ

独りだけの死は怖いよ 広島忌

池辺よみこ (当時二十九才 東芝広島支店勤務)
                         *広島忌(き)

 当時西宝町に下宿し、会社が己斐(こい)方面に疎開(そかい)していた。あの八月六日、比治山橋を渡り宇品(うじな)行きの電車に乗り、専売局で爆心地を通る己斐行に乗りかえた。千田町の日赤病院の前あたりで電車は急停車した。

 背中に熱湯を浴びたようで、音は全然聞こえず、とたんに両耳が鳴りだした。もし光が顔に当たっていたら、あきめくらになっていただろう。千田町から大河方面に逃げる途中、機銃掃射があるというので、比治山斜面に避難、そこには中学二年男子が三人、赤裸で皮膚がケサゴロモのようにたれ、マツゲ、眉(まゆ)もなく生きた埴輪(はにわ)そのものであった。広島という大きな窯(かま)の中で生きたまま焼かれたのである。

 戦後は数年、白血球のバランスが悪く、耳から採血したとき止まらなくなったこともある。目が白内障(はくないしょう)になり、それは三十代からである。両方手術したが、その頃、水晶体(の手術ができる病院)は日本では三ケ所くらいだった。もちろん入れてはいない。遠視のため、遠近二つの分厚い眼鏡である。正面しか見えないので危なく、杖を使用している。被爆者の子女の結婚をとやかく言われたが、私は意に介さなかった。放射能の問題だからである。科学的ではないと思ったから。

 スリップの肩のひものあとが、数年残った。耳鳴りは半年続いた。

 科学的ではないと言った私が、科学に強いわけではない。若い人に言いたいことは、科学的にものごとを考えていただきたい。恋愛も科学的にしたら安心して楽しいではあるまいか。

 被爆者も老いてゆくばかり、二〜三人でも呼んでいただければ、遠くでも「話」にいきます。

 スミソニアンの原爆の展示を、元軍人たちが反対しているのは知的ではない。無垢(むく)の民を何十万も焼き殺すとは許せない。筆舌(ひつぜつ)では尽くせない。

 夕凪(な)ぎて 広島は川、海を染め





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