未来への伝言
昭和二十年八月六日の日記


未来への伝言
町田市原爆被害者の会(町友会)編1999年

昭和二十年八月六日の日記

                         井手俊文
               (当時十六才 高等逓信講習所生徒)

 当時わたしは昭和二十年四月一日より高等逓信講習所(東京都国立)に入学することになっていましたが、食料事情、交通事情悪化のため「現地ニテ実習スベシ」との命令により、広島搬送工事局に実習生として勤務中(広島市雑魚場町)に被爆、なお母と二人暮しでした。

 さて、つぎの時代へ残す目的としての証言につきましては、現在に至るまで詳しい模様など家族にも話したことはなく、ご依頼も無視して参りましたが、東友会、町友会の方々の熱心さにうたれ、記述する気持に変わりました。

 しかし、七十才の足音が近づくにつれ、文章を書くのが億劫(おっくう)になり、「あの時の光景、出来事」については当時の日記をそのまま転記させていただきます。

 私は昭和十八年以来、毎日日記を数行書いていましたが、なぜか、八月六日だけは詳しく書いていました。ただ、当時の十六才の少年の拙文(せつぶん)ですが、あえて書き直すことなく紹介いたします。
 
   * * *

 本日母は隣組の疎開家屋後片付け作業の鶴見地区に割り当てられていた。隣りのラジオ屋とその隣りの万年筆屋のおばさんと三人。

 私は母より十分ばかり早く家を出る。心臓の弱い母が夏の太陽の下で脳貧血をおこしはしないかと心配しつつ。

 母はモンペをはき、麦わら帽子をかぶり、小さな弁当を用意していた。六時四十分頃発令されていた警戒警報は出発前に解除される。B29が四機、各々単機で広島上空を通過したとのこと。そのためゲートルもつけず家を出る。
 比治山をこえ、鶴見通り、県女の前を通って電車通りと歩き局につく。到着八時五分、朝礼におくれる。すぐ上衣をとり、炊事場で水を飲み、机の前に座る。

 友、出原は宣伝を信じ、爆撃を恐れ、福山に帰省のため、友は福永のみ。

 時間は八時十二分か二分過ぎたか、三分過ぎたか、ピカッとフラッシュのごとき閃光、瞬間頭に浮んだのは電気設備の多い局舎で、どこかショートさせたなと思う。瞬時をおかず、物凄い爆風、局舎全壊、その間何も考えられず、柱が屋根が、いやという程頭に降り、体を叩(たた)き付ける。全く生き心地なし。

 崩壊が終わった後、右手はなぜか火傷の水ぶくれができており、左頬、左手、右足から出血。右手にはキャップのついた万年筆をまだ持っていた。シャツもズボンも破れ、今日帰る時はどうする、このみっともない格好で、と思ったけれど。

 幸いにも骨折はなく、立ち上がる。頭の上の材木類は案外(あんがい)簡単に取り除かれ、空をあおぐ。もうもうたる土煙り、太陽はかすかに黄色く見える。小学生の頃、燻したガラスで日蝕を観測したのと同じである。隣の市庁のガラス窓は全部破れ、泣きわめく声まさに悲痛、地獄の修羅場(しゅらば)でなくて何である。
 今まで電気事故のため、局だけが崩壊したと思っていたが、広島全体がやられた。遂(つい)にやられた。今まで戦災にあわなかった広島が。アメリカ!!憎悪(ぞうお)より恐怖がわく。

 気がつけば足下からうめき声が聞こえる。福永が顔面を血だらけにして助けを求めている。材木を払いのけ、やっと救出。庶務(しょむ)の新谷、左足骨折、血の滴る大腿骨が皮膚を突き破っている。助けようとしても悲鳴をあげ意のごとくならず。「電話をかけてくれ、中の55番だ」と叫ぶ。いくらなだめても「電話を」と絶叫(ぜっきょう)する。助けを求めるために外に出る。市庁、中国配電、そして工事局から、全裸となった男、そして女が出て来る。大きな火傷をしている。兵隊が日本刀の刀身だけをもって局の庭に来ている。戦闘帽のしたの頭髪はきれいになくなっている。

 土煙の中から四方を見れば、方々に火焔ものすごく、音を出して燃えている。瞬間、頭に浮んだことは母!母!!母がいるであろう鶴見地区の方は火焔二条、天に向かって突っ立っている。両手を合わせて無事を祈る。自分は運良く軽傷。隣組の注水訓練を思い出し、バケツを探し、一杯、二杯かけても、火勢は益々(ますます)強くなるのみ。その間に釘をふみつけ、出血箇所まで増える。

 自分の荷物を取りに行く。圧死している土木課長。崩れてしまった自分の机からゲートル、救急袋を出す。父の形見の懐中時計を入れた上衣、それにいくら探がしても帽子は見当たらず、火勢益々強まり、近づき、遂に諦(あきら)める。

 防火用水の汚い水の中に身を沈め、体を濡らして市庁の庭に退避(たいひ)。しかし、すぐ三階に火が移る。色々な配給用紙が火の尾をつけて飛び狂っている。体は熱くてたまらず、局の前の疎開家屋倒壊後へ移る。幾人かの死骸、全身やけどでけいれんしている赤児(あかご)につまずきながら。防火用水の傍らに座る。出血が目鼻に入るため、ゲートルで顔を覆(おお)い、再び水を被り、すでに火焔のなめつくした南の方に脱出を試みたが、比治山通りのアスファルト道路を這(は)い寄せる焔に、思わず身をひるがえす。身は熱くてちぎれそうで、背中は火のついているかのよう、瞬間、死を覚悟する。

 やはり駄目だ、脱出を取り止め、小さな焔をいくつか跳び越えて再びもとの場所へ帰る。ここは木辺がわずかにくすぶるのみ。幾たびかシャツやズボンを濡らしても、すぐ乾いてしまう。水の少なくなった防火用水槽には、すでに人がいっぱいはいってしまった。その中の女の人が「南無八幡大菩薩」と両手を合わせている。

 四方を見渡せばどこも火の海に完全に包まれている。朝は少しもなかった風がものすごく吹きはじめ、火焔は熱っぽい風にメラメラと大きく揺れている。はるか黄天の中に敵機の爆音、またやるのか?不思議に恐ろしくはなかったが、激しく嘔吐(おうと)、悪寒(おかん)を覚えその場に横になる。

 疲労その極に達し、人事不省(じんじふせい)になり、幾時間そこで眠ったであろうか。傍らの人が水を求め、揺り起こされる。夢遊病者(むゆうびょうしゃ)のような足取りで水の出ているところまで行き、水を汲み与(あた)う。

 中国配電の女事務員は、顔の傷を心配してコンパクトを出して眺(なが)めていたが、「治りましょうか」と心配顔で尋(たず)ねる。再び、時計が焼け残っていはいないかと全焼した局の跡へ行ってみたが、全然わからず、持参していた弁当箱が変な形となって焼け残り、中の大豆飯(だいずめし)が黒く焦げて隅に焼きついている。

 時間は夕方五時を過ぎた頃になるであろうか、東方の火柱は少なくなり、西方に物凄い火柱が黒煙とともに天に向かって突っ立っている。任保に住んでいる中尾事務員と脱出を企(くわだ)てる。悪いと思ったが、傍らの死亡している西警察署員の持っていた毛布を二人で被り、灼熱(しゃくねつ)のアスファルト道路を歩く。道路の両側からは、焼けただれた家の中から苦悶(くもん)の声が聞こえる。

 完全に焼かれた広島、出勤の時と比べ、変わり果てた広島、海も山もすぐそこに見える。焼けてしまえば狭く見える広島。比治山橋を渡る。対岸の家屋はまだメラメラと燃えつづけている。途中で一中の後輩(こうはい)に会う。彼らも鶴見地区の作業に従事していたが、大半は死亡せしとのこと。

 兵器廠(しょう)の前で中尾事務員と別れる。南段原郵便局で水をもらう。幸いにも比治山東部は焼け残っている。全く不幸中の幸いである。我家は倒れ崩れている。近所の人が「お母さんはトラックに乗せられて東の方へ。相当な重傷でしたよ」と伝えてくれる。あっ母はまだ生きている。部屋の中の机に白いチョークで「東の方に行く、母」と書いてある。裏口には真っ黒に焼けただれたワンピースが脱ぎ捨てられている。かくも重傷で着替えていく気丈(きじょう)な母よ。

 二階にやっと上がれど何も手がつけられず、飲みたかった胃薬をやっと飲む。食欲は全くなく、ヘタヘタと椅子に座れば、立ち上がることさえ容易ならず。母を探しに、と思えど、足は動かず明日まで許せと念願す。隣のラジオ屋の市中四年生の子も帰ってきた。彼は広島西部の作業でかすり傷ひとつ無し。彼はすぐ米を探し、夕食の用意すれど、自分は薬を探し、手の傷にメンソレータムをつけ、あとはただ横になったまま、ようやく二階から布団、蚊帳(かや)をおろして、ガラスのかけらの飛び散っている台所を掃除し、そこに横たわる。

 夕日はすでに落ち、あたりは宵闇(よいやみ)に包まれていた。疲れた、疲れきった。

(後日談)
 母は二日後(八月八日)に、収容先の海田市国民学校で死亡。私も半年間、脱毛、下痢、口内出血等の被爆症状に苦しみました。






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