ヒロシマで見た生き地獄

「もう、人間を火葬にしているという感覚は次第になくなっていく。
人間らしい感情は全くまひしていった。」


ヒロシマで見た生き地獄

佐々木庫吉(当時十八才・陸軍特別幹部候補生)

 海上挺身隊(ていしんたい)特別攻撃隊要員として江田島幸浦で訓練中、八月六日を迎えました。当日午後〜十四日まで、救援のため広島市内に出動。

一。ぜひ伝えておきたいこと

 (1)巨大なフラッシュが兵舎の中まで、一瞬(いっしゅん)淡(あわ)いオレンジ色に輝く茸(キノコ)雲が。写真の巨大なフラッシュが兵舎の中まで一瞬照らし出したと思ったらものすごい爆裂(ばくれつ)音。
 てっきり、兵舎のどこかに爆弾が落ちた、と思った。無我夢中(むがむちゅう)で横穴式の防空壕にかけこみながら、ふと振り返ると、広島方向の空に、少し赤みがかった淡いオレンジ色に輝く茸状の雲が、もくもくと上昇中だった。その日の午後、大発艇(だいはつてい)で広島に出動。
(*大発=旧軍隊で、大型の発動機がついた舟艇。)

 (2)宇品の桟橋(さんばし)に到着

 宇品の桟橋に着くと、そこにはもうすでに数体の死体が並べられていた。かぶせられた菰(こも)の端からはみだした足先が垂直にぴんと天上を指しているのが忘れられない。
 船で似島あたりに収容しようとした途中で事切れたが故に放置されているのかも知れなかった。

 (3)ぼさぼさ髪、煤(すす)けた顔、皮膚のずりむけた腕やほほ。みんなうつろだ。

 上陸すると、宇品桟橋周辺は焼けていなかったが、破壊は軒並(のきな)みだった。トラックで運ばれてくる被災者たち、婦人たちのぼさぼさした髪の毛、煤けた顔、皮膚のずり落ちた腕やほほ、そしてすべての顔がうつろで呆然(ぼうぜん)としている。生きているだけに凄惨(せいさん)だった。

 一歩市内に入ると、一面がくすぶり続ける焼野原。道路に倒れた電柱は、まだ燃えて火がちらちらしている。焼跡(やけあと)の熱気が、強烈に迫る。電線をまたぎながら進んだ。

(4)「水、水、水を…」とひっきりなしに叫(さけ)びつづけていた。母に似た老婆(ろうば)が。
 
 最初の救難作業は御幸橋(みゆきばし)付近だったろうか。道路脇に倒れていた五、六十才ぐらいのおばあさんだった。黒っぽいモンペに白い半袖(はんそで)を身につけていた。
 首筋と上腕の露出(ろしゅつ)部分に、黒い線でくっきりと区別されて焼けちぢれていた。急いで担架に乗せ、橋の袂(たもと)に係留(けいりゅう)されている大発に乗せる作業であった。似島(にのしま)の検疫(けんえき)所に移送するのだそうだ。
 彼女はさかんに「水をくださぁーい」と叫びつづけていた。誰かが「水をやってはいけない」と大声でどなっている。「水をやれば直(す)ぐ死んでしまう」と言う。年格好(としかっこう)の似ている故郷の母を思い出したのだった。

(5)深夜の担送。空が白み始めてからレールを枕(まくら)にして、しばしまどろむ。深夜近くなって、今度は江波(えなみ)という所まで担送だという。似島はもう満杯なのだそうだ。どこで収容したのか、男なのか、女なのか。年寄りなのか若者なのかは、全く覚えていない。とにかく軽くはなかったから、大人だったに違いない。

 被災者もあんまり苦痛を訴えなかったから、生きていたのか、死んでしまっていたのかも、記憶にない。とにかく遠い道のりだった。
 くすぶる焼野原の真っ暗な道筋を、前を担架に黙々として続くのだった。組みからつるすひもが、肩にくいこむ。腕が棒のようにしびれてくる。
 一〜二時間後、ついた所は学校のような感じの場所だった。電灯がついていなかったからよく分からなかった。窓ガラスは全部やられて床に散乱していた。歩くとガラスがばりばりと割れる音がする。そこに被災者を下ろして今来た道を逆もどり。

 途中で東の空が白み始めていた。市電の車庫(しゃこ)のようなところに着いたときは、すっかり明かるくなっていた。電車の引き込み線路を枕に、しばしまどろんだ。強い夏の日ざしと空腹で、目が覚めた。(ここは広電(ひろでん)の車庫のようだ)。

 (6)「生きていてよかったなあ」と頬ずりしながら泣いていた親子も?

 その日も快晴だった。少し西の方に場所を移して、昨日に引き続き被災者収容作業。見渡す限りの焼野原、安芸(あき)富士がいやに大きく近く見える。

 産業奨励館(しょうれいかん)という建物(原爆ドーム)が惨(みじ)めな姿を川の向こう岸にさらしていた。が、それとても負傷者たちに残された数すくない立派な収容所だった。
 少しでも息のあるものは、倒壊を免れたか、焼け残った屋根のある所なら、どこでも収容した。そして死体は焼却だった。
 誰かがどこからか大八車(だいはちぐるま)やリヤカーを見つけてきた。少しずつ腐臭(ふしゅう)が漂(ただよ)い始めた。いやな人間の腐(くさ)り始めた臭いが鼻をつく。
 産業奨励館の丸天井の下は、死体やら負傷者やらでいっぱいだった。異様な臭いが充満(じゅうまん)していた。運びこまれるかたわら、次々と息を引き取っていく。事切れた遺体は、片隅によせていく。まるで荷物か何かのように。
 息のある負傷者を寝かせる場所を何とか確保しなければならなかった。

 アンペラ(*)をしいたコンクリートの床に赤ん坊を抱いた婦人が横になっていた。赤ん坊に頬ずりしながら泣き叫んでいた。 (*ござの一種)
 「生きていて、よかったなあ」と。
 しかし赤ん坊は生きていたのかどうか分からなかった。よしんば助かっていたとしても、その後どうなったかどうか知る由もない。あの婦人の泣き叫ぶ声だけが耳に残っている。

 (7)上げ潮(しお)となると死体は静かに川を遡(さかのぼ)り、引潮(ひきしお)となるとまた下へ流れていく。
 その日の夜は中国製紙とかいう鉄筋コンクリートの廃虚(はいきょ)だった。人影は全くない。みんな蒸発(じょうはつ)してしまったのだろうか。その夜もまた野宿。
 明くれば三日目。その日も快晴だった。地上の死体はあちこちにころがっていた。川の橋桁(はしげた)にはまだ死体はひっかかったままだった。大きな図体(ずうたい)の馬も流れていた。それらを手繰(たぐ)りよせながら引き上げる。

 (8)どろっとしたものが流れ出した。人間だった。その内臓だった。
 付近の道路の両脇には、ところどころ片付けられないままの死体、この頃から死体の焼却作業となる。
 空地の確保には事欠かないが、燃料の、焼け残りの木材がなかなか調達(ちょうたつ)できない。とにかく一面焼野原なのであるから、簡単には見つからない。つい遠出となる。

 (9)死体焼却作業、無感情に。

 穴を掘ってトロッコのレールのようなものを探してきてその上に渡し、かき集めてきた焼け残りの廃材(はいざい)をその上におき、死体をのせて軽油を注(そそ)いで火をつける。晴天続きでよく燃える。
 臭(くさ)い、こげる臭(にお)い。もう、人間を火葬にしているという感覚は次第になくなっていく。人間らしい感情は全くまひしていった。
 名前とか、身元など確保することはなかった。そんな気遣(きづか)いもできる状態ではなかった。

 (10)家族らしい人たちの泣く姿を見て...

 初めて人間らしい感情と厭戦(えんせん)気分。死体焼却現場にて。
時折、生存者が遺体を持ってきた。家族の者だろう。自らもやられていたのである。火傷の顔面を真っ白に薬をぬった婦人が泣いている。
 遺体は女性だった。娘さんか、妹さんか、話しかけるすべもない。無惨な戦争の犠牲者に対する同情の涙がはじめてほほをつたった。

 たった一発の爆弾(ばくだん。この頃やっと特殊爆弾だということが伝わってきた)で、この悲劇に打ちのめされるとは何たる事か。

 (11)死者の魂(たましい)の慟哭(どうこく)なのか、怨念(おんねん)なのか。
 ちらちらと青白い火影がゆらぐ。途中で一度江田島へ帰ったような記憶がある。
 八月十日か十一日、そして翌日にはまた出動だった。 
 この頃には、負傷者の収容はもうなくなり、もっぱら死体の焼却だった。およそ百体ほど火葬に付した。とにかく日中カンカン照りの中の作業であるから、みんなくたくたに疲れる。
 ひとたび横になると、翌朝まで熟睡(じゅくすい)だった。ふしぎに、蚊やノミに悩まされることはなかった。
 死者の怨念なのか、ちらちらと青白い火影がゆらいでいる。あの光景も忘れることはできない。

 (12)「助けて下さい...」と消え入るような声も見殺し、悔恨(かいこん)と慚愧(ざんき)。
 話がこの辺に来ると、日時の前後関係の記憶に自信がない。ソ連の参戦を聞いたのもこの頃だった。あの精鋭(せいえい)を誇った関東軍も総くずれだとか。そんな絶望的な話もつたわり始めていたのである。
 もうだめかと、ふと絶望感が脳裏(のうり)をかすめた。
 そんな時だった。何人かで移動中、道路わきに腐臭を放つ未処理の遺体が放置されていた。
 「兵隊さぁん....」と、か細い声でよびかけられているのに気がついた。みんなぎょっとして立ち止まった。と、遺体とばかり思っていたその中の一つが動いたのである。
 そして「助けて下さぁい...」と、今にも消え入るような声をふりしぼって助けを求めていた。
 まだ、生きている。生命力の強さに驚いた。女性のような声だった。が、別の任務をおっている我々には見殺しのすべしかなかった。救難に出動したはずの人間が、それを知りながら、そのまま放置して立ち去ったのである。

 被爆後数日間、あの炎天下、熱射にさらされながら、ひたすら助けを
待っていたあの被災者が、最後の力をふりしぼって助けを求めたのであろうに。あの生死をさまよいながらも手をさしのべてもらえなかった無念と絶望を思うと、悔恨と慚愧はいまだにわが心を苛(さいな)む。
 明治橋の袂(たもと)付近であったと思う。

(13)化膿し始めた目には蛆(うじ)虫が...坊やの母親はどこ?

 橋を渡りながらなお進んでいくと、今度は道路の傍らに掘ってある防空壕の中でうごめいているものがあった。灰とほこりにまみれた十才ぐらいの男の子だった。
 まともにあの閃光(せんこう)を目にしたのであろうか。顔面は焼けただれて化膿しはじめていた。両眼には数ミリの蛆がはっていた。もちろん視力は完全に失われ、ただ激励(げきれい)するより他に手はなかった。
 あの坊やをその時どのように扱ったか、覚えていない。あの日の朝まで、温かな母親の愛情に育(はぐく)まれていたであろうに。その母親もおそらく....。

二。被爆後(戦後)の病気や生活や心の苦しみ

 ○発疹(はっしん)チブス--敗戦直後のこと。四十度前後の高熱で、二十日程苦しんだ。
 ○骨腫(こっしゅ)--敗戦直後、昭和二十二年頃だったか切開削取。
(*骨芽細胞の増殖による腫瘍。)
 ○虫垂炎(ちゅうすいえん)手術--1953年、腹膜炎(ふくまくえん)を併発(へいはつ)、予想以上の療養(りょうよう)期間を要した。
 ○内痔核(ないじかく)手術--1956、85、94年
 ○高血圧症--1975以来現在まで治療(ちりょう)中
 ○痛風(つうふう)--1985年以来、現在治療中
(*尿酸が体内に異常に蓄積し、関節炎を起こす)
 ○脊椎管(せきついかん)狭窄症(きょうさくしょう)・椎間板(ついかんばん)ヘルニア手術--1985年(最初の発病は1950年)
 ○狭心症(きょうしんしょう)--1988年以来、現在治療中
 ○聴覚神経(ちょうかくしんけい)腫瘍(しゅよう)--1993年以来   治療中

 ○息子の生と死 
 1964年に生まれ1979年に死亡。たった一人の男の子だった。彼の外耳閉鎖(がいじへいさ)として受けた出生と、脳腫瘍(のうしゅよう)としてその閉(と)じた生涯が、小生の被爆の直接か間接かの因果関係(いんがかんけい)ありやなしや、知る由(よし)もない。しかしふと結び付けたくなるこの運命が悲しくも今も尾を引く。

三。今被爆者として生き、訴えたいこと

 よくぞここまで生き延びてきたものだと思う。何度あの恐ろしい光景を夢見たことであろう。あの言語に絶する悲惨と苦痛は今も心に疼(うず)く。
 核兵器を保有し、その実験を続け、しかも自分たちだけで独占し続けようとする安全保障常任理事国、その首脳は一度、原爆の事故にまきこまれてみればよい。そうでもしなければ、二度とあってはならないこの悲惨の極(きわまり)が理解できないのではないか....と思ったりする。  冷徹(れいてつ)な事実の直視(ちょくし)、地道な努力が最善とまた思い直す今日この頃である。





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