決して忘れることのできないこと、訴えたいこと

決して忘れることのできないこと、訴えたいこと

吉元トキ子(当時二十三才、広島市翠(みどり?)町にて被爆)

 当時広島文理科大学(現広島大学)数学教室科学研究傭員(よういん)として働いていた。被爆した妹は昭和二十一年三月に、母は昭和四十六年二月に死亡した。
 右半身に多数受けた傷からの出血がひどく、安静療養(あんせいりょうよう)中だった妹が、手押車で陸軍共済病院につれていってくれたが、そこはこの世にあるべくもない地獄だった。髪はこげ、全身焼けて赤むけになった人でいっぱい。
「助けて、水を!」と訴え、うめいていた。市の中心部の家屋取こわしに動員されていた中学一〜二年生が、次から次へと支えられながら入って来た。目の潰(つぶ)れた子、全身焼かれた無惨(むざん)な子どもたち。
 私を介抱(かいほう)してくれた妹は、翌年三月、二十一才で生命つき、(市内)中心部の身内は下敷きとなって、炎に焼かれて死んだ。その人たちとともに、中学生の姿は五十二年経(た)っても忘れられない。

 二度と子どもたちの上に原爆が落ちてはならない。後に被爆者運動に参加する私の原点。昭和二十九年まで住み、放置され、流言に苦しむ被爆者の必死の姿を見、自分もその一人だった。

 アメリカは被爆について書くことも、語ることも禁止し、日本政府はそれに同調、死ぬ者はすでに死に、生き残った者は非被爆者と同じ健常と言ったが、実際には後遺症(こういしょう)が続いた。かくされた事は異常な差別を生む。子どもへの心配、就職、結婚にも影響(えいきょう)が及んだ。

 今世紀は核兵器廃絶(はいぜつ)に大きく動いたが、未だに口を閉(と)ざしている被爆者は、深刻な苦しみの時期があったのだと思う。私にも口を閉ざした時期があった。口を閉ざしている被爆者が今もあるのは、初期に被爆の実相、放射線の影響をかくしたアメリカ、日本政府に罪(つみ)があると思う。

 あの日被爆した同じ立場にあるというところに身をおいて、運動への理解、書き残し、語りつぎを働きかけたい。
被爆者でない広島・長崎両市長の、国際司法裁判所での証言は、世界中に大きな感動を呼(よ)んだ。
核兵器のない二十一世紀をめざして、次代の人、子どもたちに体験を継承(けいしょう)してもらうことが、一番大切な、生き残って生命の少なくなったわたしたちの使命と思う。


(出典)
未来への伝言
町田市原爆被害者の会(町友会)編1999年





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