町田平和委員会

思い出すたびに涙・・・

思い出すたびに涙・・・
 中野フミヨ  (当時十才 長崎にて被爆)
 
 あの時、昭和二十年八月九日午前十一時二分、小学校五年生だった私は、一才の弟のお守り役で、静かな午前の夏休み、昼食にはあと少しの時を、弟の昼寝に添い寝していた時でした。
 「パッ!!」突然に閃光が走り、一瞬目をうばわれたか、真っ白い、ただ真っ白い中におりました。
「何が起こったのか?」素早く私は弟を背中にくくりつけました。くくりつけるなんて身についていたのか、ただ夢中で、そして、余りの驚きに弟を背に、ぼう然と立ちつくしていました。
 その時、大声で私を呼びながらかけよる母の姿を見て、へたへたとその場に座り込みました。恐らく一生に一度でしょうね、腰をぬかすという経験を致しました。

 「何ばしょっと!早よ防空壕へ!」と母に一喝(いっかつ)され、玄関に引きずり出されて、母は七才の妹を捜しに、私は町内の防空壕へとひた走りました。
つんのめり、つんのめり、近いはずの防空壕が何と遠く感じたことか。防空壕の中は蜂の巣(はちのす)をつついたようで、ワイワイ、ガヤガヤ、誰もが爆風で石が飛んできたのを、自宅に爆弾が落ちたと思っていたようです。

 昼間なのに空が黒く感じて、夜には向こうの空は赤く染まり、またこれから何が起きるのか、不安と恐ろしさでいっぱいでした。父母たちは夜になっても帰らない姉の心配をしていました。
 
 二日後、爆心地に近い浦上茂里町の兵器工場の給与課(城山小学校にあった分室)に勤務していた女学校出たての姉が、黒く黒く焼けただれ、よれよれになって帰ってきました。町内の防空壕まで二キロの道程を「母さんに会いたくて....」と息も絶え絶えに言って姉は、母の腕の中に倒れかかったそうです。

 私が目にした姉の髪の毛は、血のりで逆立ち、背中には大小数えきれないガラスの破片がつきささり、服はボロボロに形をなさず皮膚に張りつき、優しくてきれいだったあの姉の姿が。あの時の子ども心には、とてもこわくて.....(それから後、何年間も夢の中で姉のその姿にうなされました)

 傷ついた姉の背中にはガラスがキラキラと光っていて、それを父はピンセットで歯をくいしばり、黙々と一個抜いては赤チンをぬり、そのたびに姉は弱々しく顔をゆがめていました。

 父と姉のそれは何日間か続きました。抜いても抜いてもガラスの破片はとりきれなくて。。。

 八月十八日、被爆から九日目、姉は母に「母さん抱いて。。。」とつぶやいて皆の見守る中、母に抱かれて他界(たかい)致しました。

 私の家は爆心地より三・五キロの新中川町という所で、伊良林小学校
を見おろせる高さの(学校のすぐそば)石垣の上の家でしたが、その小学校には、絶え間(たえま)なく負傷者の人たちが運び込まれては亡くなっていきました。

 運動場に掘ってある防空壕は、死体焼場と化しました。校舎からはたくさんの負傷者の人たちの、声にならないうめき声が、「ウォーン、ウォーン」とにぶく、切れ間なくひびき渡り、我が家に聞こえてきました。

 そうです。五十年経った今もなお、あの時の事は、きっとこれからも生涯、一時も忘れることはございませんでしょう。

 最後にどんなに言葉をつくしても万分の一も書き表せない自分自身が、歯がゆく、もどかしく思えて仕方がありません。

 「どうして戦争するの?なぜ?」
 あの時から私の心はこう叫んでいます。

 一日も早く被爆体験を書かねばと、思えば思うほど、あの日の事が思い出されて、体がふるえる思いを致しておりました。ペンをとっては涙が流れて、途中まで書いては破り、亡姉や、その姉を追うように十年もしない内に若くして母も亡くなり、いろんな出来事が頭の中をかけめぐりますが、言葉にすることは何と難(むずか)しいことでしょう。書きたいことはいっぱいあるのに、やっとこれだけ書きました。

 亡姉の分まで、亡母の分まで、私事ではありますが、しっかり生きて行きたいと思っております。





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