広島原爆体験記(2)

これからご紹介するのは、A4で38ページに及ぶ被爆者の証言広島原爆体験記
――あの日から五十年目の回想--  東岸初江
の(2)である。
「何の前触(まえぶ)れもなく、全く突然、真黄色な光が、パーッと音もなく眼前に広がった。

 ピカッとではなく、私の感じたのはパーッという光り方であったから、眩(まぶ)しいとは思わなかった。

 その光の中に私がたった一人包まれて、その真っ只中(まっただなか)にいる、という感じであった。従って人影も物の形もすべて掻(か)き消されて、全く見えず、唯(ただ)一面視野に入る限り光の海であった。

 光の色を一口に真っ黄色と言ったが、レモンイエローでもなく、オレンジでもなく、その中間であろうか。」

(2)は
広島貯金局、福屋分室から
窓と壁
八月六日の朝
光の海まで。

以下、数回に分けてご紹介させていただきます。また、引用に当たり、一部ふりがなをつけさせていただきました。打ち込みのミスなどご指摘いただければ幸いです。
 町田平和委員会ホームページ管理人より


広島貯金局、福屋分室

福屋というビルは、爆心地から東へ、約八百メートル離れた、八丁堀にあった。そして電車通りに面していて、八階建てくらいのビルであった。何年前に建てられたものか、私にはわからないが、「福屋」と言えば、戦前は、広島では唯一大きなデパートであった。

 福屋の周辺には、中国新聞社、福屋旧館、東洋座、広島東宝、広文館などなど、大きな建物が建ち並んでいたし、その周辺は、新天地や金座街、そして本通り、革屋町へと続く繁華街(はんかがい)であった。また八丁堀から北へ向う、市内電車白島線の分岐(ぶんき)点でもあった。

 戦局も次第に悪化の道を辿(たど)り、福屋デパートもいつの間にか閉鎖され、電車通りに面した一階の正面入り口には「軍需監理部」と太々と墨(すみ)で書かれた、大きな木製の看板が掛(か)けられていた。

 進徳高女の働いていた七階と五階の分室は、東側の出入り口を通り、従業員用の狭い回り階段を使用していた。朝の出勤の時この階段を上がり、夕方の帰りに降りるだけであったから、各階ではどんな作業がなされていたのか、知る由(よし)もなかった。
 七階の作業場は、振替貯金課の仕事が主で、貯金局の事務員、女子挺身(ていしん)隊、進徳高女三年生、女子商業の三年生、以上の構成で、総勢(そうぜい)百名くらいはいたであろうか。

 五階は証券課の仕事であったが、人員も少なく、七階の三分の一くらいであったろうか。学徒は進徳高女のみで、7階から分かれて、五名くらいが出向いて手伝っていた。
 七階では、広いフロア一杯に机を並べて作業していた。進徳高女は大体南側に、女子商業は北側に寄った位置に配置されていた。

窓と壁
 生徒の作業は、振替用紙や伝票の整理、ソロバン計算、スタンプ押し、封筒入れなど、紙類を扱う作業が主であった。従って、紙片が風に吹き飛ばされないように、真夏の暑いさ中であっても、窓は全開にすることはできず、上下動の窓のため、下のほうを十センチ程度開けて作業していた。

 因(ちな)みに、七階の窓や壁を見てみると、
東側—コンクリートの壁、エレベーター、トイレ、従業員用階段などで、窓は階段の上の方に小さなものがあった。
西側—爆心地の方向であるが、一面コンクリートの厚い壁で、窓は全くなかった。
南側—東寄りには壁が厚く、西寄りに窓があり、進徳高女の生徒は、その窓近くで作業をしていた。
北側—電車通りに面していて、いわば福屋の正面であり、一面ガラス窓であった。
 結局、窓に近い場所で作業していた学徒たちは、強烈な爆風によって、木っ端微塵(こっぱみじん)に吹き飛ばされたガラスの破片によって、負傷者は多数に及んだのである。

 私の机の位置は、大体七階の中央辺りに、女子商業の片山先生の机と背中合わせに置かれていて、それぞれ自分の生徒の見える方向に向いて座っていた。つまり私の机は、南向きに置かれていたわけである。それに、私の机の真横には、大きなコンクリートの柱があり、その陰にもなっていたのである。

 私は幸運にも、掠り傷(かすりきず)一つ負わず、全く無傷で助かったのであるが、女子商業の片山先生は、残念ながら、ご自宅で下敷きとなられ、亡くなられたとお聞きした。生徒たちのことが、どんなにか気にかかったことと思う。ここに改めて、先生のご冥福(めいふく)をお祈り申し上げたい。

 後々、私が無傷で助かった原因を、私なりに考えてみたのであるが、
一、 爆心地の方向が、コンクリートの厚い壁であり、窓が全くなかったこと。
二、 南北の窓より離れた位置に机があった。
三、 大きなコンクリートの柱の陰になっていたこと。

 これらの条件によって、閃光(せんこう)、熱線、放射線、爆風などを受けた量が、多少なりとも少なかったのではないか、素人(しろうと)考えではあるが、そう思っているのである。その時にいた場所によって、また微妙(びみょう)なずれによって、それぞれ大きく運命は分かれたように思う。

八月六日の朝
 七階の貯金局へは、東側の入り口を入って、エレベーター横の、狭い回り階段を、毎朝歩いて上がっていた。「学徒はエレベーター禁止」と、始めから言い渡されていたのである。早朝の出勤であったから、どんな人たちが利用していたのか、めったに見かけることはなかった。しかし間もなく、「電量節約の為(ため)運転禁止」と書かれた札が、扉(とびら)に貼り出された。

 この頃は、既に物資も著しく不足していたから、生徒たちは靴もなく、もんぺの制服に下駄履(げたば)き、という姿で、一階から七階までを、カチャカチャカチャカチャと、下駄の音を賑(にぎ)やかに響かせて、元気に上り下りしていた。私は七階まで一気に上らず、四階辺りの踊り場(おどりば)の小さな窓から、比治山の緑、青い空、広島の街並みを眺(なが)め、一休みしてからまた上っていった。

その日の朝も、いつもと少しも変わりなかった。空は青く、太陽はじりじりと照りつけてくる。

 ここでは八時から朝礼が始まる。学校とは違って、ビル内の作業場であるから、机と机の間の狭い通路や、少しのゆとりのある場所へ、各自めいめいが集まって来るのである。もんぺ姿に白鉢巻(はちまき)の生徒たちは、十五、六才の少女ながら、戦争に勝つことを信じ、機敏(きびん)で凛々(りり)しく作業を遂行(すいこう)していた。

 朝礼は、木村班長さんの号令で始まるのである。いつものように、
一. 東方遥拝(ようはい)
二. 皇軍将兵の武運長久(ぶうんちょうきゅう)
三. 戦没将兵の英霊(えいれい)に対し黙祷(もくとう)
四. 逓信訓(ていしんくん)
 という順序で進められた。
 
 逓信訓というのは、五項目位あっただろうか。大きな模造紙(もぞうし)に書かれていて、常によく見える位置に貼ってあった。それを見ながら、みんなで声を合わせて唱えていたが、残念ながら、今はそれを一行も覚えていない。唯(ただ)その声が、高い天井に響きわたっていたのを思い出す。

 朝礼が終わり、それぞれ席に戻った生徒たちは、もう鉢巻にうっすらと汗を滲(にじ)ませ、頬(ほほ)を紅潮させて、作業準備に取りかかっていた。そして始業のベルがまだ鳴り終わらないうちから、既にパチパチと、冴(さ)えたソロバンの音、伝票をめくる音、トントンとリズムにのったスタンプの音、これらの音が軽やかに響き、七階の広い作業場は活気にあふれ、もう仕事は始められていた。

 私は、朝礼を終えて自分の席に戻り、机の上に置いていた救急袋と防空頭巾(ずきん)を、いつものように机の右の開き戸の中に収めて、椅子に掛けたのである。

 そこへ、
「先生、眼が痛いので逓(てい)信病院へ行かせて下さい」
と申し出た生徒がいた。それは楠原妙子という生徒である。「ものもらい」とのことで、目をしょぼしょぼさせている。

 勤務中外出する場合は、外出許可証を持たなければならなかったし、その許可証には、課長、係長、担任の三つの判こが必要で、担任のみの許可では外出できない規則であった。私はなぜか、「病院へは昼食後に行ってはどうか」とすすめたのである。生徒も素直に、
「はい、そうします」
と答えた。古川係長の判こは昼食後もらうように言って、担任の欄(らん)に私の判こを押し、許可証を生徒に渡した。したがって、あの八時十五分には、楠原妙子は七階で作業していたはずである。

 後日聞いたところによると、楠原妙子と沖本スミ子の二人は、あの時、作業中のペンを握ったまま、逸早く脱出したとの事である。

 その後は、元気で平安に暮らしているとのこと、本当によかった。あの朝の会話を、不思議に今でも声が聞こえてくるように思い出すのである。

 私の机の上には、いつも出勤簿(しゅっきんぼ)が置かれていて、生徒たちは毎朝出勤してくると各自が捺印(なついん)していた。いつも全員出席で、生徒の判こが花のように見事に並んでいた。「優秀なる勤務状態」と、課長さんからよく褒(ほ)められたものである。

光の海
 席に着いた私は、いつものように机の上の出席簿を手に取って見た。一日、二日、三日、四日、今月は四日の土曜日まで全員出席の判こがきれいに揃(そろ)っていた。ところが、六日の朝に限ってポツンと一名だけ判こがない。その生徒は田中孝子であった。欠席だろうか。それとも遅刻だろうか、と思いながら出席簿を見つめていた。

 その時、将(まさ)にそのときが八時十五分であったのである。

 何の前触(まえぶ)れもなく、全く突然、真黄色な光が、パーッと音もなく眼前に広がった。

 ピカッとではなく、私の感じたのはパーッという光り方であったから、眩(まぶ)しいとは思わなかった。

 その光の中に私がたった一人包まれて、その真っ只中(まっただなか)にいる、という感じであった。従って人影も物の形もすべて掻(か)き消されて、全く見えず、唯(ただ)一面視野に入る限り光の海であった。

 光の色を一口に真っ黄色と言ったが、レモンイエローでもなく、オレンジでもなく、その中間であろうか。

 屋外(おくがい)にいたほとんどの人は、その光の高熱で大火傷(おおやけど)をしたのであるが、私はビルの中にいたためか、光の温度や熱といったものは、全く感じられなかった。従って、火傷も全くなかった。光の海をじっと見つめていた間は、人の声も、物音も、全く聞こえず、すべてが光に吸収されてしまった、という感じであった。七階では大勢働いていたが、多分、みんな一様に、呆然(ぼうぜん)として声もなく、唯々(ただただ)光を見つめていたのだろうと思う。それは不気味な静寂(せいじゃく)であった。






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