広島原爆体験記(3)

これからご紹介するのは、A4で38ページに及ぶ被爆者の証言
広島原爆体験記
――あの日から五十年目の回想--  東岸初江
の(3)である。

重症の生徒を見つける
 ふと気が付くと、北側の窓から生暖(なまあたたか)い空気が流れ込んでくる。電車の線路を隔(へだ)てた向かいの福屋旧館のビルの窓から、黒煙と炎が吹き出ているのである。その光景を見た私たちは、俄(にわ)かに危険が身に迫ったことを感じ、不安に襲(おそ)われてきた。その時突然に、
 「先生、あれ、今村さんじゃないでしょうか」
 という生徒の声である。驚いてふり向くと、南側の窓際の暗い床に倒れている生徒の影が、ぼんやりと見えてくる。慌(あわ)てて近寄ってみると、血に染まってぐったりと倒れているのは、やはり今村千代子であった。私はいきなり血のべったりと流れている床に座り込み、
 「今村さん、今村さん!」
 「今村さん、しっかりして!」 
 と、呼びながら抱き起こした。今村は全身ガラスの負傷で、物凄(ものすご)い出血である。頭,耳、首、胸、両手、制服、床、血でべっとりである。両腕の傷は特にひどく、少々の出血ではない。進徳高女、今村千代子、と白い布に書いて胸に縫(ぬ)い付けた名札も、血に染まっている。生徒を抱きかかえた私は、床に座ったまま、唯々驚いて腰も抜けんばかりであった。
 なんとしても連れて逃げよう、一刻も早く脱出しなければ….という思いに気は逸(はや)るばかりであった。
「今村さん、今村さん!」
 と何度声をかけても、私の腕の中でぐったりとしていて返事はない。
 「今村さん、一緒に逃げようね、しっかりして….」
 と励ましながら、この重傷の生徒をどうやって連れ出そうか、咄嗟(とっさ)にはその術(すべ)も浮かばず、生徒を抱いて床に座り込み、途方に暮れるばかりであった。

 このままでは立ち上がることも出来ない。思案の末、生徒は苦しいかもしれないが、私が背負(せお)って、逃げられるところまで逃げよう、と決心した。今思ってみても、あの時、あれ以外に方法はなかったと思う。後でわかったことであるが、今村の胸には、鋭いガラスの破片が深く刺さっていたのである。私は小暗い中で、気が付かないままおんぶして、長い避難の道を歩いて行ったので、胸を圧迫されて、どんなに痛く、苦しかったことであろうと、思い出す度に私も胸が痛むのである。

 二人の生徒の手助けを借りて、ぐったりしている今村を、何とかして私の背中にのせることを試みた。ところが、私が両手で支えていないと、ぐったりしている今村は滑(すべ)り落ちてしまう。座ったまま手を取られている私は、立ち上がることもできない。そこでもう一度、今村を抱き取ってもらい、私が中腰になったり、膝(ひざ)を立てたり、いろいろと姿勢を変えて、四苦八苦(しくはっく)の末、再び背中にのせ、よろよろしながらやっと立ち上がることができた。
 「さあ、逃げましょう」
 と、二人の生徒を促(うがな)し、私たちの脱出が始まったのである。


血糊(ちのり)の七階、血糊の階段
 このビルには、階段が二ヶ所あった。一つは、いつも通勤に使った東側の階段、もう一つは、普段(ふだん)使うことのない、北側正面の大きな階段である。
 「先生、こっちです」
 という生徒の後から、大きな階段の方へと向かった。私は腰を屈(かがめ)めながら、遅れないようにと、小走りに急いだ。

 私の背中におんぶしている今村の血は、私の髪の毛を伝って、頭、顔と流れ、そして眼に染み入り、頬から顎(あご)へ、顎から滴(したた)り落ちる血は、私の衣服を紅く染めたのである。眼に染み入る血を拭(ぬぐ)わなければ、眼を開けていられないので、私は立ち止まっては、片目ずつ、ブラウスの袖で交互に血を拭った。その都度(つど)、ずり落ちそうになる今村をずり上げ、腰を屈めてまた歩く、ということの繰り返しであった。第三者が見れば、私が大怪我をして血に染まっているようであろう。

 五階まで下りたときであろうか、何か分らない大きな物が崩壊し積み重なり、階段を塞(ふさ)いでしまっていた。通り抜ける隙(すき)などない。立ち止まった私たちは、急いで七階へ引き返すことにした。東の階段へと脱出の道を変更したのである。私は二人の生徒に遅れないようにと、精一杯追いかけた。

 東の階段へ回るため、七階でうろうろしていると、突然、学徒指導係の戸田班長さんが現れて、
 「先生、急いで逃げてください」 
 と、一言残して、私たちの目前で慌(あわ)てて、北側の窓から外へと姿を消されてしまった。
 「どうなさったのだろう」「階段がないのだろうか」と、不安に思いながらも、私は窓際へ行って外を覗(のぞ)く余裕もなく、そのまま生徒の後を追って、階段へと急いだ。

 階段へと向うこの辺りの床にも、べっとりの血が流れ、糊状になっている。そしてその血の流れは道を作り、階段の方へと続いているのである。きっと負傷した人たちが、自ら血を流しながら、血に塗られた道を、次々と大勢逃げて行ったものと思う。この惨状を想像しただけで、目減(くら)みがしてきた。私たちも、この血糊の道を辿(たど)って行くしかなかった。

 血糊というのは、文字通り粘っこくて、うっかり歩くと滑(すべ)るのである。二人の生徒は、下駄を爆風に飛ばされていて裸足(はだし)であったから、素足で滑りながら、血糊を踏んで歩いた。幸いにも私は、ボロ靴(くつ)を飛ばされることなく履(は)いてはいたが、靴を履いていても滑るので、生徒をおんぶしているし、油断はできなかった。
 足元に注意を払いながら、階段の方へと続いている血糊の道を、一歩いっぽ慎重に歩いた。大量の血とその血腥(ちなまぐさ)い臭いは、その時の惨劇(さんげき)を生々しく思わせて、私は大変なショックで吐き気(はきけ)を催(もよお)して来た。しかし、この血糊を辿っていけば必ず出口があるのだ、というささやかな安堵感(あんどかん)に、辛(かろ)うじて励まされた。

 やっと階段の下り口まで来た時、東の方の窓から、恐ろしい光景が眼に入ってきた。福屋ビルに間近い中国新聞社が、黄色い炎に包まれ、凄(すご)い勢いで燃えているのである。ビルの内部では下の階から上の階まで、狂ったように猛火が渦巻(うずま)いているのが見える。三階辺りであったかと思うが、炎の中に黒い人影が影絵のように動いている、唯一人のみである。

 私と同じように気を失っている間に、早くも出荷して逃げ遅れた人であろうか。窓に近寄って助けを求めているように見えたが、間もなく影は消えてしまった。私が七階から降りて行く直前に眼にした、忘れることのできない光景である。

 今にして思えば、あれ程間近に、ビルの猛火を冷静に見ていた私の神経は、どうなっていたのか不思議に思えるのである。その時、私はまだ七階にいたのであるが、もし、福屋の下の階から火が出ていたら、生徒を背負った私と二人の生徒は、脱出することはできず、そのまま七階で命果てたことであろう。しみじみと幸運であったことを思うのみである。

 血糊は暗い回り階段へと続き、そして一段々々と流れ落ちていて、階段は一面地に塗られていた。生徒を背負っている私は、滑り落ちないように、足元にばかり気を取られ、一歩いっぽを踏みしめて下りて行った。今何階を下りているのか、各階はどうなっているのか、見る余裕もなく下りても下りても階段は続き、抜け出すことは容易ではなかった。二人の生徒は既に、下の階に下りて行ったらしく見えなくなった。

 私が二階か三階まで下りた時、黒い防空頭巾をかぶって、踊り場の片隅にうずくまっている人があった。両膝(ひざ)をかかえて顔を埋めたままである。
 「ここにおったら危ないですよ、一緒に逃げましょう」
 と、私は覗き込む(のぞきこむ)ようにして声をかけ、促したのであるが、その女の人は、ちらっと私を見上げ、無言のまままた膝に顔を伏せてしまった。私は生徒を背負っているし、これ以上どうしてあげることもできず、ただ声をかけてあげただけで、本当に切ない思いでそのまま階段を下りていった。「あの人はどうなさっただろう」と、未だにあの情景が思い出されるのである。

 階段は下に下りていくほど暗く、不気味な静寂が漂(ただよ)っていた。このビルを脱出するのは、私が最後かと思うと、気味悪い恐怖感が、うしろから私を追いかけて来る思いがした。


福屋ビルからの脱出
 時間はかかったが、やっと何とか一階まで下りることができた。しかし、安堵(あんど)する間もなく、次の難関(なんかん)が待っていた。出口はどこだろう、と見回すと、東側の方がぼんやりと明るい。暗い階段からそちらの方へと血糊の道が続いていた。

 ところが、爆風のために、出入り口のシャッターが崩壊し、床から一メートル位の所まで落下していた。しかも斜めに落ちているから、そこを一人ずつ潜(もぐ)って通り抜けなければ出られないのである。辺(あた)りを見回しても、一階はまっくらで出口はない。

 私が出口に来たときは、まだ七、八人の人が出られないで残されていた。女の人はいなくて男性ばかりであった。大勢の人びとが血を流しながら、この狭い出入り口に詰(つ)めかけ、一人ずつ出て行ったのであろうから、その辺りの床は、一面、まさに一面血糊の海であった。滑らないように、私も二人の生徒を連れて、最後尾にならんだ。強烈な血腥い臭いが立ち込めて、吐き気に攻められ続けた。

 壊れたシャッターの下を、一人ずつが小腰をかがめて潜(くぐ)り抜けて行くのであるから、恐ろしく時間がかかる。それでも「ここまで来たのだから、もうすぐ出られる」といった安堵感で、順番を待つのも、割合に平静を保つことができた。

 一階は暗くて、明かりと言えばシャッターの下から、ぼーっと光が射しているだけである。血糊を踏み、床に立って順番を待っている人たちの足が、逆光線で黒くシルエットとなって見える。私はこの時、夜明け、太陽の光、外気に触(ふ)れる、といったような嬉(うれ)しさが込み上げてきたのである。

 順番を待っている間に、何気なく後を振り返ってみた。一階は暗くて定(さだ)かには見えないが、じっと眼を凝(こ)らしていると、崩壊(ほうかい)したすべての物が、黒々とうず高く積み重なって、瓦礫(がれき)の山をなした惨状である。人影のない、不気味な静寂の漂(ただよ)うこの光景を、私は平静というよりむしろ、気の抜けた、呆(ほう)けた心でじっと見つめていた。

 背負っている生徒が、これまで何度もずり落ちそうになるのを、かがんではずりあげていると、生徒もさすがに苦しいらしく、その都度(つど)、
 「う〜ん」
 と、弱々しい声で訴える。
 「今村さんごめんね。もうすぐ出られるからね」
 と、励ましつつ順番を待った。私は背負っている生徒が重いとか、かがめている腰が痛いとか、焦燥感(しょうそうかん)のようなものは全くなかった。シャッターの前に立っていた男性の一人が、突然、何か大きな叫び声を上げたが、その後、何事もなく、またもとの静けさに戻った。そこに並んでいた人たちは、それを驚くでもなく、みんな黙って立っていた。大分長時間待ったが、やっと私たち最後の順番が来た。二人の生徒は、腰を屈めて上手にシャッターを潜(くぐ)り抜けた。私は、背負っている今村の頭が、シャッターにぶつからないように、腰を低く折り曲げ、血糊に足を取られて転びそうになりながら、やっと、本当にやっとの思いで、ビルを脱出することができた。

(出典)
未来への伝言
町田市原爆被害者の会(町友会)編1999年






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