広島原爆体験記(4)

これからご紹介するのは、A4で38ページに及ぶ被爆者の証言

広島原爆体験記
――あの日から五十年目の回想--  東岸初江
の(4)である。

八丁堀の惨状(さんじょう)

 福屋ビルから一歩外に出た瞬間、太陽が明るい、太陽が眩(まぶ)しいと思った。しかし、その太陽の下、見渡す限り建物は崩壊し、壊滅(かいめつ)状態である。その中、私の眼に入った建物は、福屋、福屋別館、中国新聞社であったが、その中国新聞社と福屋別館は盛んに燃え上がっていた。七階の窓から見た、あの茶褐色(ちゃかっしょく)の淀(よど)んだ空気は、この崩壊の為だったのだと、外に出て初めて分った。

瓦礫(がれき)の山と化してしまった街は、目安になるものもなく、どこがどこだか見当もつかない。紙屋町の方から広島駅へと続く電車の線路が、石畳の道に、四本並んで鈍く白く光って残っている。福屋の左隣は東洋座であったが、瓦礫の山である。向かいの東宝映画館も、崩壊してしまっている。東口からビルを脱出した私は、全く想像もしなかった惨状に、暫(しばら)くは呆然として眺めていた。


>火傷(やけど)した人
 電車通りを、紙屋町の方からこちらへ向かって来る人が、後から後から続いてくる。ほとんどの人が火傷していて、上半身裸である。戦闘帽(せんとうぼう)を被って火傷した人は、髪の毛が丸く、帽子の中だけ焼け残り、丁度(ちょうど)、黒い水泳帽を被っているように見えた。女の人の髪は、焼け焦げているか、または私と同じように、ざんばら髪である。

 赤黒くやけただれた顔、首、胸、背中、両手などの皮膚は、水ぶくれが破れて、皮は剥(は)がれ、ぼろぼろ、ずるずると垂れ下がり、じりじりと太陽に照りつけられ、両腕を前に垂らし、まるで幽霊(ゆうれい)が彷徨(さまよ)っているようであった。急ぐでもなく、泣きもせず、黙したまま、とぼとぼと歩いている。私は、この人たちはどうしてあんなに火傷したのだろう、この人たちはどこから逃げてきたのだろう、と線路に立ったまま見つめていた。

 八丁堀の電車停留所付近に、幾人(いくにん)かの火傷した人や、血に染まった人が、逃げていく様子もなく、呆然と佇(たたず)んでいた。その中に、同じ七階で勤務していた、女子挺身隊(ていしんたい)の伊藤さんという方を見かけた。血に染まって真っ赤な顔面である。最初は誰だか見分けもつかなかったが、三つ編の長いおさげ髪を、肩から胸まで下げていらしたのが特徴であったから、伊藤さん、ということが分った。頭、顔面から流れた鮮血(せんけつ)が、白いブラウス、黒いもんぺへと滴(したた)っていた。線路の上に突っ立ってぼんやりと福屋の方を見つめていらした。

 私たちも、ぼんやりと立っていた時、七階でお会いした戸田班長さんに、ここでまた偶然にもお会いしたのである。戸田さんの説明だと「七階の窓を乗り越え、北側のバルコニーに降り、そこからは避雷針か何か、そんなものに(つか)まって地上まで降りてきた」とのことであった。両方の掌(て)が深く擦(す)り裂(さ)けて、血は滲(にじ)み、火傷の人とは反対に、両手を上に向けて、痛そうに顔をしかめて立っていらした。

 燃え盛る福屋旧館の炎は、まるで生き物のように、線路を越えて、こちらへ噴出してきた。私たちはようやく逃げ出す気持ちになり、戸田班長の後ろから、二人の生徒、私と続いて、東の方へと歩き始めた。

 空襲だとすれば、爆弾はどこへ落ちたのだろう、どの辺りが燃えているのだろう、分らないまま、逃げる方向など考えもせず、ただ足の向くまま、何となく東へ向ったのである。

 後日思ったのであるが、もし西へ向っておれば、八百メートルの地点が爆心地であったのである。ここでもまた私たちは幸運に助けられたことを感謝したいと思う。

 戸田班長さんと二人の生徒は、どんどんと歩き始めているが、今村を背負った私は、どうしても遅れがちになる。二人の生徒は、立ち止まっては後を振り返り、私を待ってくれていたが、そうこうしているうちに、足の早い戸田班長の姿を見失ってしまった。

瓦礫(がれき)の道
 八丁堀を出てしばらく東へと歩いていた私たちは、まっすぐか、左かの分かれ道へ来た。私たちは迷うことなく左へと曲がった。つまり北へと向ったのである。状況判断をして北へ向った訳ではなく、左手にまっすぐな道が見えたから、という程度のことであった。

 あのまま東へ行っていれば、必ず川に行き当たり、橋があったかどうか。生徒をおんぶした私は、泳ぐことは不可能である。

 北へ向うこの道も、両側の建物の崩壊で瓦礫の山である。道幅は狭くなり、二、三メートル位になっていた。その道を、汗と血で拭いながら、ひたすらに歩いた。

 今にして地図を辿(たど)れば、流川町とか・・・町辺りの道ではないかと思う。

 この辺りの道を歩いて避難している人は、次第に少なくなってきた。太陽は容赦(ようしゃ)なく照りつけ、行けども行けども物陰はなく、炎天の道程であった。
 しばらく歩いたところで、右側の瓦礫の傍(かたわら)に、ぼんやりと座り込み、呆けた眼差(まなざ)しで私を見ている老婆があった。
「一緒に逃げましょう」
と声をかけたが、返事はない。
 火傷もなく、怪我(けが)もなさそうである。土埃を頭から被って、黒く汚れた顔にざんばら髪が乱れかかっている。すぐ傍らに大きな黒っぽい荷物があったが、それがおばあさんの物か、誰かが置いて行ったのか分らない。その傍らに、汚れた猫が手足を伸ばして死んでいた。この猫は火傷しているようには見えなかった。

 そこから十メートル位行ったところに、全身火傷の四、五才位の幼児が、防火用水槽の縁(ふち)につかまり、覗(のぞ)き込むような格好で死んでいた。その周辺には、母親らしい人も家族らしい人も見当たらない。幼児一人が外で遊んでいたのだろうか、私は切ない思いでその姿を見つつ、そのまま通り過ぎてしまった。

 後日、あの子はまだ息があったのではないだろうか、と思われて、あのまま通り過ぎてしまった自分を責めた日が続いた。
(出典)
未来への伝言
町田市原爆被害者の会(町友会)編1999年






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