広島原爆体験記(5)

これからご紹介するのは、A4で38ページに及ぶ被爆者の証言
広島原爆体験記
――あの日から五十年目の回想--  東岸初江
の(5)である。
同僚である衣川先生との遭遇から、疲れがピークに達し、「私はその人たちをながめながら、心の疲れか、次第に傍観者(ぼうかんしゃ)となってきたように思う。」との告白までをつづる。

同僚との遭遇(そうぐう)
 ふと前方を見ると、危(あや)うい足取りでこちらへ向って逆に歩いてくる一人の婦人があった。

 近づいて見ると、驚いたことに、それは進徳高女の同僚である衣川舜子(きよこ)先生であった。私たちは、この偶然の出会いを手に手を取り合って喜んだ。

 先生の額から流れ出た鮮血が、色白の上品な先生のお顔を紅く染め、紫色の浴衣の上衣ともんぺに滴っていた。そして焼け付く瓦礫の道を、裸足で歩いて来られたのである。

 私は、衣川先生がどちらにお住まいか全く知らなかった。従って思いもかけない場所で先生にお会いできたことは、本当に驚きであった。百万の見方を得た心地で大いに心強く,私たちは瓦礫の道の真ん中に立ち止まって、お互いに怪我を気遣い合った。

 先生は、家屋疎開のためご自宅で荷造り作業をなさっていて下敷きとなられ、前頭部、額を負傷なさったとのことである。
 「学校や生徒が心配ですから、一寸(ちょっと)行って見て参ります」
 と、南竹屋町の学校まで歩いて行くとおっしゃるのである。しかし裸足(はだし)でいらっしゃるのに。責任感の強い先生に私は恥じ入るばかりであった。

 衣川先生の担任は二年生であった。ちょうどその日、二年生は建物疎開の勤労奉仕のため、全員登校しており、校庭に集合している時間であった。先生はそれを心配なさって、どうしても学校へ行くとおっしゃる。
 「先生、八丁堀辺りはもう火に包まれていると思いますよ」
 「他に通れる道もありましょうから…」
 「いえ先生、あちらの方はとても駄目(だめ)だと思います。どこに爆弾がおちたのかわかりませんから…」
 私は、南竹屋町の辺りも火に包まれているのではないかと思ったので、一生懸命お引き留めした。生徒もしきりに先生の袖(そで)を引っ張っている。
 とうとう先生も決心なさり、ここから先をご一緒に逃げていくことになった。

 瓦礫で狭くなった道を、まっすぐに北へと歩いていると、真正面に丈(たけ)の高い石柱の門と、その奥に庭園が見えてきた。その庭園の木立は、炎を上げて燃え盛っている。

 門前には陸軍の将校さんと思われる軍人さんが、軍刀を杖に一人だけ立っていて、避難してくる人々に、
「こっちへ逃げろ、こっちへ」
 と指揮をとっていた。その軍人さんは、火傷はないようであったが、頭の包帯はすっかり血に染まり、左手を吊(つ)った国防色の三角巾(きん)も血に染まっていた。
 私たちは、
「どうもありがとうございます」
と一言残して、教えられた通り左へ急いだ。つまり、西へと向ったのである。

 庭園の松林は、道路のすぐ傍らまで燃え広がっていたから、頭上から燃え落ちてくる炎の枝を避けるために、そこを走って通り抜けた。走ると言っても、背負っている生徒も重く、私には無理で、急ぎ足程度である。

脱出以来、初めて危険をひしひしと感じた。

市内電車の骸(むくろ)
 燃える木立の下を通り抜けた私たちは、ひとまずほっとして、のろのろと足を緩(ゆる)めて歩いていた。すると間もなく電車通りに出てきた。

 方向音痴(おんち)の私も、「これは白島線だ」とすぐ直感した。結局、八丁堀を出てから、回り道をしてやっと白島線へ辿(たど)りついたのである。私たちは、線路に沿って休まず終点の方へと向った。

 軍靴(ぐんか)を重たそうに引きずりながら、兵隊さんが次々と私たちを追い越して行く。後姿(うしろすがた)をみると、戦闘帽は焼けて吹き飛んだらしく、髪の毛が黒く丸く焼け残り、上半身は裸で、ひどく焼け爛(ただ)れている。みんな黙りこくってうつむき、とぼとぼと歩いて行く。この辺りを逃げていく人は、兵隊さんが多く、それも頼母(たのも)しい姿ではなく、とても哀れで悲しみの漂(ただよ)う姿である。「これから先、戦争はどうなるのだろう」ふと不安が過(よぎ)ぎった。

 人に追い越されながら、白島へと歩いていると、市内電車が一台、線路の上に取り残されている。朝の通勤通学客で満員であったろうと思う。何もかも吹き飛んで、乗客も逃げたらしく、がらんとして電車の骸となっていた。乗客は恐らく、火傷やガラスの傷を負い、逃げて行ったことであろう。あの瞬間の惨劇を彷彿(ほうふつ)と思わせ、取り残された電車から悲鳴が聞こえる思いがした。

 二人の生徒が、突然その電車に走りよって、中へ入って行った。私は生徒の突然の行動を不審(ふしん)に思って立って見ていた。しばらくして二人は,二足の履物(はきもの)を見つけて出てきたのである。そして、一足のちびた粗末(そまつ)な下駄を、裸足の衣川先生の前に揃(そろ)えて差し出し、残る一足の草履(ぞうり)を、二人で仲良く片方ずつ分け合って履(は)いたのである。

 私はこの生徒たちに、手を合わせたい思いであった。衣川先生も二人の生徒も、炎天下の瓦礫の道を裸足で歩いてきたのであった。どんなにか熱く、辛(つら)かったことであろう。ボロ靴ながら履物をはいていた私は、申し訳ないと思いつつ歩いた。

 白島の終点終わり辺りに近づいた頃、あちこちに火の手が上がっていた。どちらへ逃げるべきか、路上に立ち止まって迷ってしまった。東の方に大きな橋が見えていたが、橋の袂(たもと)付近やその辺りの建物は盛んに燃え上がっていた。
 「あの橋を渡りましょう」
 衣川先生のご判断である。燃えている傍らを通り抜けなければならないが、先生のお言葉どおり、この橋を渡ることにした。

 橋は意外(いがい)に長くて、歩いても歩いても向こう岸に着かない気がした。渡りながらふと左手の川上の方を見ると、この橋に並ぶように山陽本線の鉄橋があった。その鉄橋の広島駅よりに、黒い貨車が数輌(すうりょう)脱線して横倒しになり、車輪をこちらに見せている。一輌は鉄橋からぶら下がった格好(かっこう)である。なぜか機関車らしきものは見えない。

 その貨車の姿は、まるで生き物の果ての姿に見えて、私の眼には物悲しく映った。
 鉄橋に眼を奪われたり、足元に気を取られていた私は、橋の下を流れる太田川の水面がどんなであったか、見るゆとりもなく、三人の後を追うように渡って行った。
 後日、この橋が常盤(ときわ)橋であることを知った。


饒津(にぎつ)神社
 橋を渡り終えると、道は左右に分かれ、正面に饒津神社という社(やしろ)があった。
 右へ行けば東錬兵場方面、左へ行けば牛田方面という分岐点(ぶんきてん)であった。学生時代一度歩いた覚えがある道であった。

 神社の裏山、奥まった社、境内の木立、などなどが音を立てて燃えていた。石柱や石灯籠(いしどうろう)にもたれかかったり、参道、道端、木陰、草むらと、そこら中に負傷者、避難者がひしめいている。この辺りまで精一杯逃げて来て、力尽きたのであろうか。

 私は、まだ空襲があるに違いないと思っていたから、ここで止まる気持ちはなく、もう少し山奥まで逃げよう、と決心していた。

 参道の松の木や、周辺の木立が燃えながら道に倒れ、倒れてなお燃えながら道を塞(ふさ)いでいる。
 「衣川先生、大丈夫ですか」
「私は大丈夫、行きましょう」
衣川先生の確かな声に、二人の生徒がまず手をつないで、燃えている丸太を飛び越えていった。衣川先生と私も生徒に促(うなが)され、躊躇(ちゅうちょ)してはいられなかった。頭上から燃え落ちて来る枝を恐れ、丸太の炎を夢中になって跨(また)ぎ、生徒の後を追った。

右手の方に山が段々と近く見えてきて急に安堵感(あんどかん)が湧(わ)いて来た。もう少し、もう少しと背中の今村を励ましながら、じりじりと照り返す砂利(じゃり)道を黙々と歩く。

 道の左手は、数メートルの石垣の崖(がけ)になっていて、崖下には太田川が何事もなかったようにゆったりとした流れを見せている。

 川と山に挟(はさ)まれた一本の砂利道を、いつ来るかもわからない空襲を恐れながら、山を目指してひたすら歩いた。この辺りまで来ても、道端や草むらには、力尽きたたくさんの避難者でいっぱいである。私はその人たちをながめながら、心の疲れか、次第に傍観者(ぼうかんしゃ)となってきたように思う。

(出典)
未来への伝言
町田市原爆被害者の会(町友会)編1999年






町田平和委員会トップページへもどる




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送