広島原爆体験記(6)

これからご紹介するのは、A4で38ページに及ぶ被爆者の証言
広島原爆体験記
――あの日から五十年目の回想--  東岸初江
の(6)である。

重症の生徒に水を
 しばらく歩いていった所に、夏草の茂った土手があった。土手には桜の若木が数本植えられていて、小さな木陰を作っている。そして土手下には小さな溝があり、わずかな流れが涼(りょう)を呼んでいた。その溝や、草むら、木陰には群れ横たわっていて、息を吹き返している人々でごった返していた。
 「先生、少し休みましょうか」
 衣川先生は私の疲れを気遣(きづか)って下さった。福屋を脱出してどの位歩いたであろう。初めての木陰である。私はここで生徒に水を飲ませて、手当をしてやりたいと思い、草むらに寝かせてやれる場所を尋ねてうろうろと歩き回った。

今村は真夏の太陽に照り付けられた長い道程を、どんなにか苦しかったことであろう。

 良い場所が見つかったので、衣川先生や二人の生徒に手助けを頼み、私の背中から今村を抱き取っていただき、ようやく夏草の上に寝せてやる事ができた。長時間背負われ、炎天に晒(さら)されていた今村は、ぐったりと弱りきっている。

 福屋の七階で今村を抱き上げた時には、暗い中で、しかも慌(あわ)てていたために、顔や怪我の様子などをはっきりとは見ていなかったが、今、夏草の上にそっと寝かせ、太陽の下で初めて今村の顔を見て、腰も抜けんばかりの驚きであった。

「今村さん苦しかった?」
「。。。」
「今村さんごめんなさいね」
「。。。」
「今村さんお水上げるからね」
今村の唇(くちびる)の色はなく、声も返ってこない。

私は思案の末、ハンカチに水を含ませて飲ませよう、と考え、もんぺのポケットにいつも入れていたハンカチを取り出した。私が福屋から持ち出せたものは、このハンカチ一枚だけである。ハンカチは畳まれたままべっとりと血を含んでいた。私はそれを持って土手下の溝へと降りていった。

わずかな水の流れにハンカチを浸(ひた)し、ごしごしと力一杯血を洗い流すことを試みた。石鹸(せっけん)があるわけではなく、血は中々落ちない。茶色程度になったところでそのハンカチに含ませた水を両手で掬(すく)い、急いで土手を上ってきて青ざめた今村の唇(くちびる)へと持っていった。

 今村は力なくゆっくりと吸ったが、一口か二口吸ううちに、水は零れてしまう。
 「水--」
 と欲しがる。
 やっと有りついた末、飲みたいだけ飲ませたいと思って何度も土手を下りていった。その溝には大勢の人びとが足を浸(ひた)していたが、そのときは不潔とも思わず「水だ、ありがたい」という気持ちのみであった。

 水を飲ませた後、血に染まった今村の上着の前明きを、両手で力いっぱいバリバリと引き裂(さ)き、胸を広げて顔や首、胸と、ハンカチで血を拭いとった。

 再び血に染まったハンカチをまた洗ってきて、今村の顔や胸にバタバタと気持ちばかりの風を送ってやった。

 その時、右の乳の上方にガラスの刺さっているのが見えた。びっくりしてそれをつまんで取り除こうとしたが、滑って取れない。よくよく見ると、ガラスは脇の方へと深く突き刺さってて、その先端が尖(とが)ってのぞいていたのである。

私は慌(あわ)てて、濡れたハンカチをガラスの先端に巻きつけるようにして、思いっきり引っ張った。やっと抜けたガラスは、割り箸(わりばし)のように角ばっていて、長さ十センチはあっただろうか。こんなものが胸に突き刺さっていたのに、そのまま背負って炎天下を歩かれ、どんなにか痛く苦しかっただろうと思うと、可哀想(かわいそう)なことをしたと謝るばかりであった。

 私はこの抜き取ったガラスを、血に染まったガラスを、血に染まったハンカチにぐるぐると巻いて包み、もんぺのポケットに入れた。

私はこのガラスを、元気になったら見せてあげようと、大切にしまっていたが、度重なる引越しで紛失してしまった。

 薬を求めて歩き回っていた二人の生徒がようやく帰ってきた。一人は小さなバケツらしいものに水を汲(く)んで、一人は薬瓶(くすりびん)と脱脂綿(だっしめん)を少々手に入れてきたのである。どこまで探しに行ってくれたのか、ただただありがたく感謝々々であった。

 早速脱脂綿に赤チンキを少しずつつけて傷口に塗ったが、わすかしかなかった薬はたちまち底をつき、傷口全体には回らず、治療などとは程遠く、気休めにもならなかった。
「水--」
と言う弱々しい声に、二人の生徒は交互にバケツの水を脱脂綿に含ませて唇に当て、絞(しぼ)っては飲ませた。

牛田の山
 この辺りの家々も爆風を受けて,瓦、窓ガラス、壁、屋根などが崩れ落ち、満足な家とて見当たらない。

 やがて火も迫ってくるだろうし、空襲をまた受ければ今度こそ駄目(だめ)かも知れない、という恐怖感(きょうふかん)があり、もう少し山奥へ逃げよう、ということになった。木下の草むらの中でどの位休んだであろう、時間のことはすっかり感覚が無くなっていた。
 衣川先生や生徒たちの助けを得て、再び今村を背負い、さらに山へと向う準備をした。
 ここからの道は勾配(こうばい)も急になり、道幅も狭く、石こうの多い山道となった。山裾(すそ)まで逃げてきた人たちは、歩く力も次第に弱まり、山の上へと向う私たちを無表情で見つめていた。ここからは歩ける力の残っている人のみが、山を目指して逃げていったのである。

 遅れがちな私は、眼にしみる汗を拭う余裕もなく、しっかりと両手で生徒をかかえ、喘(あえ)ぎながら山道を登っていった。
 途中、左手の斜面に小さな御堂のようなものが見えてきた。ここも爆風にやられたらしく、狭い庭先には木の折れ枝や板切れなどが散乱し、奉納提灯(ちょうちん)がすっかり壊れた庭に転がっている。生徒たちが下りて行って声をかけると、丸顔のおじいさんが、
 「すぐこの上の方に休める場所があるから…」
 と教えてくれた。私たちはもうこの辺りが限界と思っていたから、四人で喜びあい、狭い急勾配の道をもう少しもう少しと励ましながら登った。

 ここが教えられた場所と思われる所があった。見晴台、または休息所といったもので、崩れかかった屋根をかろうじて四本の細い丸太の柱が支え、二畳くらいの広さの床板はすっかり風雨に晒(さら)されて、ごくお粗末(そまつ)なものであった。それでも周囲には木々が茂り、木陰にもなっているので、敵機から身を守るには安全な場所と思われてとてもありがたかった。

 思いがけなく、再び今村を寝かせてやれる場所が見つかった。ここまで敵機は来ないだろうと言う安堵感もあって、ほっと一息つけた。

 床板の上に横にする事ができたとは言え、炎天下の長い長い避難の道であったから、今村はすっかり衰弱(すいじゃく)してしまった。

 しきりに水をほしがるので、下の人家で頂いた水を、こんなに飲ませても良いものだろうかと思いながら、欲しがるまま飲ませた。すると突然、嘔吐(おうと)が始まり、とても苦しそうである。なす術(すべ)もなく、傷を気遣いながらそろりそろりと背中をなでるのみである。嘔吐の度に不安が襲い、私は次第に心細くなってきた。

 この狭い場所も、避難者が次々と登ってきて、たちまち一杯になってしまった。火傷している人は、やけただれた皮膚がボロ布のように垂れ下がり、顔ははれ上がっていて痛々しく、悲惨な形相(ぎょうそう)である。 その中に、中学二年生という少年が三人、全身火傷、パンツ一枚で逃げてきた。皮膚がはがれ、両手を前に垂らして立っているので、私は立ち上がってここに腰をかけるようにとすすめたが、痛くて座ることも出来ないと言う。

 その生徒たちは山陽中学校の二年生で、家屋疎開の勤労奉仕に出ていたとのことである。
 「皆さんはどこの学校ですか」
 「私たち進徳よ」
 「ぼくの姉さんも進徳ですが…」
 と火傷で潰れそうになった眼を、痛そうに開けて話した。

 天満町の自宅のこと、両親、姉のことなど、心配そうであった。その中学生の名前を聞いたと思うが、残念ながら全く記憶にない。一四、五才の少年のあの悲しみを堪えた痛々しい表情は、今でも私の脳裏に焼きついている。そのご治療を受けたであろうか、元気になっただろうか、折り折りに思い出される。

 この中学生たちに山で出会って話をしているうちに、私は急に両親や弟妹たちのことが思い出された。

 福屋ビルを脱出して以来、全く頭に浮かんでこなかった家族のことが、ここに来て急に思い出され、心配になってきた。

 その日、広島市内に出向いていたのは、母と私と弟の三人であった。
 母は広島駅前の市内電車の停留所で被爆し、顔面、喉(のど)、手、足を火傷し、自力で矢賀国民学校へたどり着いた。廊下に倒れているところを、四日後の九日に救助されたのである。

 弟は、広島一中の三年生で、学徒動員により舟入の関西工作という工場にいて被爆した。建物の下敷きとなり、背中を負傷しながらも自力で這(は)い出し、川を泳いで渡り、夕方五日市の自宅へ帰りついたとのことである。

竹と筵(むしろ)で担架(たんか)を作る
 ぎらぎらと輝く太陽も、やっと西へ傾く頃、麓(ふもと)の農家の方がご親切にピンポン球位のじゃが芋のゆでたものを,小さな竹笊(ざる)に入れてもって来て下さった。丁重(ていちょう)にお礼を述べ、その笊を床板に置くと、自分で食べることのできる人はあっという間に手を出して、喜んで食べた。私は一つ取って皮をむき、指先でつぶして今村の口元に持っていった。吐(は)き気がするのか、今村は口を開けようとはしない。

 三人の中学生にと、つぶした物を順番に口元に持っていくと、腫(は)れ上がった口を痛そうに歪(ゆが)めつつ少し食べた。私はもちろん、朝から食べ物も水も口には入れていなかったが、お腹が空いたという感覚は全くなかった。

 ここへたどり着いた頃から、衣川先生は何となくお元気がなさそうにお見受けしたので、横になってお休み下さい、とおすすめしたが、
 「私は大丈夫よ」
 とおっしゃって、避難してきた人のお世話などして下さった。
 私は日の暮れないうちに救護所を尋(たず)ねて、治療を受けさせたいと気も焦(あせ)っていた。しかし、救護所が見つかったとしても、どうやって運ぶか、ということを考えると、こんな山奥まで避難してきたことが果たしてよかったかどうか。気も消沈(しょうちん)する思いである。

 私はまだ背負って歩く力は残っていると思うが、今村のこの容態では到底無理と思った。その時私の頭に浮かんだのが、担架(たんか)を作ることであった。担架に寝かせて運べば、今村も楽だろうと思い、二人の生徒に相談した。

 「先生、どこかで担架の材料を見つけてきます」
 と言ってくれた。

 私は今村を衣川先生にお願いして、早速救護所を尋ねて歩くことにした。

  衣川先生は、私に髪を結ぶようにと言って、御自分の着物を引き裂いて紐布を下さった。私は今まであの時のままで歩いていた血まみれ、埃まみれのざんばら髪を、やっと束ねて結ぶ事ができた。

 私は一人で山を下りて行った。
 肉親や知人の安否(あんぴ)を気遣(きづか)って、あちらこちら歩いている人に近寄っては、
 「救護所はありませんでしょうか」
  と尋ね歩いた。
 全身血に染まった私が歩いていると、すれ違うたびに怪訝(けげん)そうな眼で私を振り返って見ている。
 「ずっと下のほうへ行くと救護所があるそうですよ」
 と教えてくれた人があった。
 これとて確実な情報かどうか疑わしいけれど、希望を託して、私はいったん山へ帰って、急いで担架を作ることにした。

 避難して行く時は、生徒を背負っていて足元にばかり気を取られていたので、あまり山の様子には気が付かなかったが今改めて見上げると、爆風や熱線のためであろうか、山のあちらこちらに、大きな枝が無残にも引き裂かれ、折れてぶら下がっていたり、赤く燃え上がった跡がそこここに見られる。こんな所まで被害が及んでいるのかと、驚いてしまった。

 ふと、振り返って、木の間から広島の上空を見ると、濛々(もうもう)たる煙に包まれていて何も見えない。恐らく八丁堀辺りも火の海と燃え盛っているのであろう。

 今ここに立っている自分が夢を見ているようで、朝からの惨劇が信じられない。
 あれからどの位時間が経過したのだろう。
 衣川先生や今村の待つ山へ帰ってみると、先生は床に横になっていらっしゃった。
 「ただ今帰りました。先生ご気分いかがですか」
 と声をかける。
 「いえ、一寸、救護所ございましたか」
 と、弱々しいお声が返ってきた。普段(ふだん)から静かな方で大声など聞くこともない先生であるが、先生のご様子が何となく不安で心配であった。
 「先生、そのまま横になってお休みになっていて下さい」
 と申し上げて、私は今村の様子を見守っていた。

 そこへ二人の生徒が、古びた物干し竿の折れたもの、古い縄(なわ)、それに莚(むしろ)一枚を引っ張って帰ってきた。
 「先生、これだけあれば担架作れますよね」
 と得意気である。
 「ありがとう、よく、こんなにいろいろ見つかったね」

 担架を作ると言っても、初めての挑戦で自信などなかったが、生徒と三人で知恵を絞って作製に取りかかった。
 足元の悪い山の狭い斜面での作業であったが、生徒たちは担架を作りたい一心で張り切っている。
 まず莚を中央において、両側に二本の竹を置いてみた。竹は太さも長さも不揃(ふぞろ)いで、しかも曲がっている。適当な間隔(かんかく)をおいて莚の網目を指で広げ、その穴に縄を通して竹に巻きつける、これを繰り返し両側の竹に固定させるのである。縄が足りなくなって、やり直すこと幾度(いくど)、お粗末(そまつ)ながら何とか担架らしい形に出来上がった。これで今村を苦しめないで運ぶことができる。私たちのうれしさも一入であった。

 どの位の時間を費(ついや)やしたであろう。私たちは一刻も早く救護所へ運びたいと、三人で今村を抱えて担架の上にそっと寝かせた。

 「先生、救護所へ行って参ります。すぐに帰ってきますから…」
 私は後ろへ回り、二人の生徒が前を抱えて出発することになった。
 「先生、気をつけて下さいね」
 「先生たちも気をつけてね」
 と衣川先生は私たちを見送ってくださった。

 先生をひとり残して山を下るのがとても心配であったが、担架は三人で抱えないと無理のようで、誰か一人衣川先生の傍らへ残す事ができなかった。

 私は、担架で病人を運ぶことが、こんなに大変だということを思ってもみなかった。思いし、バランスは取れないし、それに狭い山道の急勾配の、しかも下り坂である。よろよろと二、三歩進んでは立ち止まる。竹も少し太すぎてうまく掴(つか)めない。重傷の今村は莚の中で蓑虫(みのむし)のように丸まってしまい、二、三歩進むたびに誰かが、
 「ちょっと待って!」
 と呼びとめ、竹を持つ手を換えたり、場所を変わったりして中々進まない。後にもひけず、どうしようどうしようと、困惑(こんわく)するばかりであった。

 私たち三人はすっかり疲れてしまい、休む時間が長くなってきた。肉親や縁者(えんじゃ)を捜して歩く人々は、担架の生徒を覗(のぞ)きこんだり、血まみれの私を振り返りつつ通り過ぎてゆく。救護所は見つからないし、辺りは次第に暮れ色が漂ってくるし、心細くなって来た。

 「明日の朝になったら、呉の海軍の救護班が来るそうですよ」
 という噂(うわさ)が耳に入った。これとても確かな情報かどうか…
これから山へ引き返す気力はなく、生徒と相談した結果、やむなく野宿することに決めたのである。

 今にして思えば、あのころの救護体制はどうなっていたのであろうか。


(出典)
未来への伝言
町田市原爆被害者の会(町友会)編1999年">






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