広島原爆体験記(7)、最終回

これからご紹介するのは、A4で38ページに及ぶ被爆者の証言
広島原爆体験記
――あの日から五十年目の回想--  東岸初江
の(7)、最終回である。

古い乳母車(うばぐるま)
 「窮(きゅう)すれば通ず」であろうか、この時、私はふと頭に浮かんだ事があった。それは、今村千代子の下宿が、東練兵場の果ての山の辺りの尾長町と聞いた事があった。お宅の名前は分らないが、親戚(しんせき)といっていたように思う。このことを思い出せたことは、本当にうれしく、すぐにも西村と二人で捜してみよう、と思った。そうすれば薬もいただけるだろうし、治療も可能かも知れない、と一縷(いちる)の望みを持った。

 とにかく、広い練兵場の草むらを、山を目がけて歩いていった。どこを歩いても負傷者と死体の山、暑さと異様な臭いはどこまでもまつわりついてくる。

 山の手へ近づいてくると、この辺りも残っている家はあるが、相当な被害を受けている。一軒ずつ片端(かたはし)から尋ねて歩くと、少し高台にとても大きな家があった。板切れ、壊れた瓦(かわら)、雨樋(あまどい)、壁、ガラスなど庭中に散乱していて足の踏み場もない。そのうえ庭にも縁側にも負傷者がいっぱいであった。

 私は家の左手の玄関の方へと回った。爆風で扉(とびら)は飛ばされたのか、広い大きな玄関は開けっ放し状態であった。

 「ごめん下さい」
 散乱した家の中をのぞきながら声をかけた。
 「ごめんくださーい」
 奥のほうから黒いもんぺ姿の、中年のご婦人が出てこられた。私の血に染まった姿を見るなり、大変驚かれ、言葉もなく呆然と見ておられた。
私は挨拶(あいさつ)もそこそこに、
 「あのー尾長町で進徳の生徒が下宿している家を訪ねているのですが…」
 と言い終わらないうちに、
 「今村千代子でしょうか」
 との返事に、下宿のおばさんも私も驚いてしまった。おばさんは私の肩につかまって泣き崩れんばかりであった。

 こちらのお宅では、広島一中の生徒でいらっしゃるご子息と、今村千代子が昨日から帰って来ず、一睡もしないで待ち続けている、とのこと、私と西村は庭先でそのお話をお聞きして、お互いに驚いてしまった。

 私は、福屋から千代子さんを背負って脱出し、牛田の山へ逃げたこと、千代子さんは火傷はしていないがガラスの傷が重いこと、救護所を捜している事、現在生徒を付き添わせ、牛田で待たせてあること、などを掻(か)い摘(つま)んでお話した。

 おばさんは手ぬぐいで涙を拭(ふ)きながら、深々とお礼を述(の)べられた。私たちもこんなに早く見つかるとは思いもしなかったから、うれしさも一入(ひとしお)で、埃まみれの顔をくしゃくしゃに綻(ほころ)ばせて喜び合った。

 私たちがこのお宅へ立ち寄ることのできた幸運を、地獄に仏と、しみじみと感謝した。早く今村に知らせたい、と心は逸(はや)り、今までの苦しさは吹き飛んでしまった。

 早速(さっそく)今村をこちらのお宅まで運ぶことになった。莚の担架のことをおばさんに話すと、
 「乳母(うば)車はどうでしょうか」
 との発案がおばさんからあり、乳母車で運ぶことになった。 

 家の裏手の法から運び出されてきた籐(とう)製の乳母車は、古びてはいたが、早速西村が押してみると、ガタガタ、ギーギーと動く。手作りのお粗末な担架で今村をまた苦しめるよりは、はるかに立派な救急車であった。

 炎天下の道なので、病人に日除(ひよ)けを作ってやりたい、とおばさんにお願いして荒莚(むしろ)を一枚頂き、それを乳母車に乗せて準備を整えた。おばさんをご案内して、牛田の山へとしゅっぱつした。

 山に待たせている生徒たちはどうしているだろう。思いは山へと飛び、ひたすら乳母車を押してガタガタ道を急いだ。

 おばさんは、道々沢山の負傷者や、累々(るいるい)と続く死体を見つつ、ご子息が行方不明であるだけに思いは溢(あふ)れ、中々前へ進めない様子であった。

 昨日通った時は、
 「水―」
 「水ください」
 という水を欲しがる声がそこここで聞こえていたが、一夜あけた今日は、それも次第に消えて、炎天下の道々には声もない。この悲惨な光景に、
 「むごいことですねぇ」
 おばさんは、涙と汗を拭きながら呟(つぶや)いておられた。

 昨日無我夢中(むがむちゅう)で逃げて行ったこの道を、結局二往復したわけであるが、私は行動するたびに出会う人や、道端に倒れている人の中に、もしかして進徳の生徒がいないかと、常にキョロキョロと見回しながら歩いた。

 やっと山の麓(ふもと)に帰り着いたものの、崩壊した家々の多いこの辺り、生徒を残してきた家はどの家であったか、眼で探(さぐ)りながら歩いていると、心細く待ちわびていた半田和子が、走り寄ってきた。私は遅くなったことを詫(わ)びながら、担架の今村の傍らへかけよった。

 「今村さんごめんね」
 「今村さん、どうお?」
 「今村さん、さあ帰ろうね」
 私たちは今村を囲んで、口々に声をかけ励ました。
 おばさんに会えて、ここまで迎えに来ていただけたことは、本当にありがたく、百万の見方を得た嬉しさは例えようもなかった。

生徒との別れ
 今村を乳母車に乗せるために担架を移動し、私が後から抱え、二人の生徒が足を持ち上げ、よろよろしながら苦心の末やっと乳母車の中にいれ、足を曲げて寝かせることができた。今村は窮屈(きゅうくつ)そうな姿勢で顔をしかめている。

 じりじりと照りつける太陽を遮(さえぎ)るように、日除けの幌(ほろ)の代わりとしてお借りした荒莚を車にかけて日陰をつくり、風も入るようにと莚を持ち上げ工夫をしてかぶせた。

 いよいよ出発の時、血に染まった莚の担架は、壊れた家の庭に置いたまま、牛田を後にした。

 私は莚の日除けを持ち上げて、
 「がんばってね」
 と顔をのぞきこみながら声をかけた。なぜだかじーんと胸が詰まり、涙が溢(あふ)れ、淋(さび)しさが込上げてきた。

 おばさんは前の方、西村と半田は両脇(りょうわき)、私が後から押してがたがた道を歩いた。石ころの少ないところを選ぶように、なるたけ凸凹(でこぼこ)の少ないところをと、気を配りながら押した。

 といっても、山沿いの石ころ道であれば、気をつけている積もりでも、思わぬ時にガタンガタンとゆれて,今村の身体にひびく。

 「今村さんごめんね、大丈夫?」
 とその都度(つど)車をとめて声をかけた。ギーギーと車の軋(きし)む音を聞いていると、「これはやはり担架の方がよかったかなー」と思われたが、引き返すこともできず、ひたすら押すのみであった。

 何時頃だろうか。ずいぶん時間もかかってしまった。太陽の位置を見上げることも忘れて、とろとろと歩いた。

 避難二日目、昨日の朝からおむすび一つの生徒たちも、すっかり疲れが見えてきた。家族の方もご心配になっているだろうと思うと、日の暮れないうちに帰宅させたい、と切に思った。

 このことをおばさんにお話しすると、
 「是非(ぜひ)先生もご一緒に帰ってあげて下さい、千代子は私がついておりますから…」
 とおっしゃって下さった。これから夕方にかけて、焼けてしまった広島市内を過ぎり、汽車の動くところまで十キロ二十キロと歩かねばならない生徒のことを思うと、こちらも心配である。

 昨日渡って避難したあの橋の袂(たもと)まで来た。私たちは立ち止まって話し合い、結局今村をおばさんにお願いして、私は二人の生徒と共に市内へ入っていくことにしたのである。

 広島市内の被害状況など知る由(よし)もなく、私は、逃げていった道をたどって、また八丁堀へ戻ろう、ということが頭を占めていた。他に道を知らないということもあり、この橋を渡れば八丁堀へいけるし、八丁堀へ行けばそこから西へは線路沿いに行けば大丈夫だろう、と考えた。

 今にして思えば、被爆直後の爆心地へと向って行ったわけである。
 重傷の生徒を背負い、二人の生徒を連れて福屋ビルを脱出し、今まで無我夢中(むがむちゅう)で行動してきたが、七日の午後、昨日のあの惨劇から逃れてきた常盤橋の袂で、いよいよ今村千代子と別れることになった。

 「今村さん元気になってよ」
 「がばってね」
 「今村さんさようなら」
 「今村さんさようなら」
 生徒も私も、汗と誇りと涙で顔をくしゃくしゃにし、日除けの荒莚を持ち上げて、交々(こもごも)に別れを告げた。莚の網目が今村の青白い顔に影を落としていた。

 今村は空(うつ)ろな眼で私を見つめていたが、声はない。西村と半田は、乳母車の縁(ふち)につかまって、ヒーヒーと喉(のど)を絞るような声で泣いている。おばさんも手ぬぐいを握りしめて、何度も何度も深く頭を下げて別れを惜しんで下さった。私も、くれぐれも今村のことをお願いしてお別れした。
 この別れが、今村千代子との永久の別れとなってしまったのである。

 乳母車は東へと向かう。私は車の軋む音を淋しく哀(かな)しく聞きながら、遠ざかっていく後姿(うしろすがた)を見送った。

 私の耳の奥には、今もってその乳母車の軋む音が淋しく鳴り続けている。
 二人の生徒を伴った私は、何だかがっくりと気落ちしてしまい、ぼんやりと橋を渡り、昨日逃(のが)れてきた道をふらふらと、八丁堀の方へと辿って行った。

 すっかり焼け野が原となってしまった街を歩きながら、生徒と私は言葉も出ない衝撃(しょうげき)であった。

 昨日見た瓦礫(がれき)の山は、燃えるものは燃え、残っているものは礎石(そせき)焼け焦げてぐにゃぐにゃに曲がった自転車、ミシン、瓦、焼け溶(と)けたガラス、水道の蛇口、などなどの残骸(ざんがい)が、ため息をついているようだった。昨日逃げる時と違って、見渡す限りの平坦な道であるだけに、却って昨日の惨劇の物凄(すご)さを思い知るのである。

 後日、航空写真などで被爆直後の市街を見れば、単純明解な道がはっきりと見えるが、実際に、茫然自失状態で歩いていた私たちは、まるで迷路に入ったような感覚であった。

 八丁堀へたどり着いたとき、私たちは言葉もなく佇(たたず)んだ。黒煙と猛火に包まれた福屋は、内外を問わずすっかり焼き尽くされていた。窓と言う窓からは、炎が吹き上げた跡が痛々しく残っていた。つい昨日の朝まで作業をしていた七階、あの七階からよくぞ脱出できたと、あの惨劇を思いつつ見上げていると、込上げてくる思いに立ち去りがたく、遠い昔の遺跡を連想しつつ焼け跡にしばし佇んでいた。

 八月六日、七日の私の体験記録は、一応ここで筆を擱(お)かせていただきたいと思う。

 付記
 今村千代子さんは、故郷の島根県へ帰り、ご両親の手厚い看護の甲斐もなく、残念ながら八月二十七日に、遂(つい)に還(かえ)らぬ人となられました。

 また、行方(ゆくえ)不明となった田中芳子さん、深田利子さん、川西真由美さん、そしてその後故人となられた北口タツ子さん、横山サチエさん、西本さん、その他犠牲(ぎせい)となられた皆さんのご冥福(めいふく)を心からお祈り申し上げます。

(完)



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