未来への伝言
町田市原爆被害者の会(町友会)編1999年
わたしの語りつづけたいこと


未来への伝言
町田市原爆被害者の会(町友会)編1999年


次第に遺体は人間でなく、物と考えるようになっていきました。五体、十体と火の中に投げ込み焼いていったのです。
強烈な死臭に苦しみ、手拭(ぬぐ)いでマスクをし、ボロ手袋で遺体を抱えあげていたのに、次第に死臭も苦にならなくなり、ボロ手袋も不要になっていたのです。
重傷者の救出活動に入った方の、証言です。

わたしの語りつづけたいこと --軍国少年、広島、戦後五十年


寺沢 茂(被爆時十八才、陸軍船舶兵)

国をあげての軍国主義教育は恐ろしい

 1933年〜1941年、この八年間はわたしの小学校時代、徹底した軍国主義の教育の下、お国のため、天皇陛下のためにと、ほんとうにまじめな軍国少年に育てられました。

 小学校入学の二年前に満州事変が始まり、四年生の時には中国への全面戦争へ突入していました。十四才で小学校高等科を卒(お)え、直ちに軍需工場へ集団就職。生まれて初めて郷里の新潟をはなれ、当時日本一長いと言われた清水トンネルをこえ、群馬県にあった海軍機製作工場で働くことになりました。(この十二月、太平洋戦争突入)

 ここで三年間働き、もっとお国のために身を捧げる所はないかと、陸軍船舶兵特別幹部候補生に志願(なぜこの兵種をえらんだか、さだかでない)、小豆島の部隊に入り、広島鯛尾の整備隊に転属、そして江田島幸浦の水上特別攻撃隊の訓練基地で八月六日をむかえることになったのです。

広島でどんな体験をしたか

 あの日の午前八時十五分、じりじりと夏の暑い日の照りつける朝でした。わたしはバラック建ての兵舎の中で訓練に出る準備中、強烈なピカを受けたのでした。まさに百雷そのもの、何秒かおいてドーンという轟音、宇宙全体がはりさけるのではないか、と思う程の恐ろしい炸裂(さくれつ)音でした。激しい爆風で兵舎は傾き、とっさに土間に伏せをしていたわたしの背中には出入口の板戸がふきとばされ、たたきつけられていました。

 しばらくして、わたしたちは恐る恐る兵舎の外に出てみました。黒か褐色か異様な煙とも雲ともつかぬものが、むくむくと天へ盛り上がっていました。向いの似島の岬の先にあった弾薬庫が爆発したのではないか、とのうわさがとびかいました。時間が経(た)つにつれ、あのキノコ雲の下からチラチラ火の手の上がっているのが見えてきました。”広島がやられた!”とわかりました。それにしても米軍機がやってきた気配はありません。警戒警報も解除されていたのです。何にやられたのか?

 およそ三時間後、出動命令がありました。スコップ、テント、水筒、若干(じゃっかん)のお米、はんごう、ボロ手袋などをそれぞれ持参、部隊所有の大発(だいはつ=かつての敵前上陸用舟艇(せんてい))に乗り込み、約三十分後、宇品の桟橋(さんばし)に到着、ここであっと息をのむ生き地獄に出あったのでした。

 油と埃(ほこり)で汚れ、真夏の太陽の照りつける桟橋に、身動きのできない重傷者が。衣服はボロボロ、髪は逆立ち、火傷にやられた皮膚はずるむけ、無惨な姿でずらり寝かされていました。爆心地方面から、臨時の治療所にあてられた似島(ここは古くから陸軍検疫(けんえき)所がおかれていた)へ運ばれていくところだったのです。すでにこときれていた人も多く、痛ましい限りでした。

 わたしたちは北上し、「高等工業」(現広島大学)など名前の聞こえてくる付近の半壊家屋内に荷物をおろし、重傷者の救出活動に入ったのです。わたし自身、広島出身者ではなく、広島市内には以前たった二回入ったのみ、地理的位置はさっぱりわかりません。二人一組となってありあわせの材料を担架にして、動けなくなっている重傷者(爆心地から避難してきた?)を、トラックの行き来する地点まで運び出す作業でした。”兵隊さーん、水”という悲痛な叫び声、抱え上げた重傷者の手、足、首筋、肩口がひどい火傷でやられ、つかんだわたしの手が骨まで届くというむごさ、せっかく救出してあげたのに、次々と息をひきとっていく、忘れようとしても忘れることのできない惨状でした。

 八月八日頃からか、救出活動をひとまずきりあげ、御幸(みゆき)橋を渡り爆心地に入りました。ここで犠牲者の遺体を火葬する作業に入ったのです。すっかり焼野原、死の街になってしまった広島、どこの地点か、さだかではありません。女専跡、県病院、池、太田川沿岸地域だったことは確かですが、とにかく、わたしたちは十人ほどが一組となり、持参したスコップで巾、深さ一メートル、長さ二〜三メートルの壕を掘り、焼けのこりの木片をあつめ、遺体を並べ、石油をかけて焼いたのです。はじめは一体ずつていねいに焼いていったのですが、何しろおびただしい数です。次第に遺体は人間でなく、物と考えるようになっていきました。五体、十体と火の中に投げ込み焼いていったのです。強烈な死臭に苦しみ、手拭(ぬぐ)いでマスクをし、ボロ手袋で遺体を抱えあげていたのに、次第に死臭も苦にならなくなり、ボロ手袋も不要になっていたのです。

 夜おそく一日の作業が終ると、遺体が燃えている火の近くで、死んだように眠りました。朝をむかえます。きれいなお骨に焼き上がっているはずはありません。髪や手足、内臓など残ったままの遺骨(いこつ)をスコップで穴を掘り、スコップですくい、仮埋葬をしたのです。いったいどの位の犠牲者を火葬にしたのか、作業は十四日まで続けたのですが、記憶はありません。相当多数(少なくとも二〜三百体以上か)にのぼったと思うのです。

 また、わたしたちの火葬した犠牲者の多くが、中学生や女学生(現在の高校生)だったこと、名前の判る者(当時は胸のところに住所、氏名、血液型を記した布をぬいつけていた)はきちんとメモし、不明の者は性別など記録を残しておいたことなど、書いておきたいと思います。(帰隊後、上司に提出)
 江田島幸浦へ帰ったのは確か八月十四日だったと思います。翌八月十五日正午、部隊全員営庭に集合がかかりました。「玉音放送」があるというのです。

“全軍重大な時期だ、がんばれ”と言われるのかと思いました。ラジオは雑音が多く何のことかよくわかりません。解散後しばらくして、日本が負けたこと、そのうちに出身地に帰してもらえることが伝わってきました。まわりの戦友たちの多くは、くやしさはなく、ホッとしたきもちでした。郷里の新潟へ復員したのは九月中旬頃でした。

戦後五十年、どう生きてきたか

 わたしは子どもの頃から、歴史物語を読んだり聞いたりすることが大好きでした。戦前のことですから戦記物が中心のわけですが、とくに明治以降の日本のかかわった戦争が、聖戦や正義のものではなく、侵略戦争であり、自分の信じこんでいたイメージが次々とくずれていったときには、ほんとうにショックでした。

 ”歴史の真実が知りたい”、そんな思いで周囲の反対を押し切って、1947年東京へやってきました。まだ戦争のきずあとが色濃く残り、生活不安いっぱいの状態でした。

 上京後の一年間はまず、ねらいをつけていたある私大の夜間部への受験準備、生活していくための仕事の確保(親からは、農家ですからお米だけは十分に提供してもらう)でした。ニコヨン、かつぎ屋など、わたしの人生の中でもっとも苦労の多い一年間でした。1953年、ぶじにある私大の文学部史学科を卒業、都内の公立中学校の社会科教師になることができました。

 わたしが被爆体験を教育実践の中で語りはじめたのは二年目、担任クラスをもつようになってからでした。子どもたちは、授業の中でもっとも目を輝かし、真剣に耳を傾けてくれました。

 たしか1956年頃だったと思うのですが、広島市立幟(のぼり?)町中学校の生徒諸君が、原爆病で亡くなった級友の佐々木禎子さんのために、モニュメントをつくる資金カンパを全国に訴えていることを知りました。さっそく、わたしは授業に出ている全クラスの子どもたちに授業の中で話し、若干(じゃっかん)のカンパを送りました。おどろいたことに、このあと、一〜二年の間に、美しい「原爆の子像」が完成し、映画「千羽鶴」がつくられ、全国各地で上映されることになりました。わたしも同じ学年の教師たちに話しかけ、自由ヶ丘の映画館を早朝借り切って鑑賞しました。次にこの映画をみた子どもの感想の一部を紹介しておきます。
  
 「とても元気のよい”さあちゃん”といわれる一少女はクラスの人気者である。彼女は爆心地から一キロばかりのところにいたのだが、かすり傷ひとつうけなかったのに、ある日病人となる。それが原爆病だとわかった時、級友はみんなびっくりしてお見舞いにいく。その度に白血球はふえていき、鶴を折った甲斐(かい)もなく死んでしまう。級友たちはさあちゃんのため、原爆で死んでいった多くの子どもたちのためにと、ついに鶴を空高く捧(ささ)げた”原爆の子の像”をつくりあげた。わたしたちは像をつくるための協力ができなかったことを残念に思う。さあちゃんのクラスがよく団結しているのにも感心した。--中略--原爆が落ち、戦争が終って十三年たった今でも、原爆症で死亡の新聞記事が時々見受けられる。このような恐ろしいことを世界の人々は知っているのだろうか。日本は(原爆の)一番の被害国だ、被害者は外国へ行って訴えてほしい。外国の人も、つよく原爆に反対するだろう。」
                   (瀬田中学校文集「瀬音」より)

 この感想を書いてくれた当時中学二年生の女の子も、1977年現在すでに五十才をこえているはず。この子たちの二年上のみなさんがカンパを広島へ送ったのでした。

 わたしは昨年三月で四十二年間の教師生活を終りました。わたしが授業をうけもったすべての子どもたちに、体験を語りついできました。そして小学生にも高校生にも、一般社会人の方々にも、要請があれば核廃絶への願いをこめ、戦中体験を語りつづけてきました。

 1995年十一月には、日本被団協の代表としてハーグの国際司法裁判所で、核兵器は国際法に違反するか否かをめぐって、とくに日本代表の平岡・広島、伊藤・長崎市長を激励もし、感動的な陳述を傍聴してきました。

 八ヶ月後に「核兵器は一般的には国際法に違反する」との勧告的意見(判決)が出されました。少々不満は出されたものの、今後の核廃絶運動を大きく励ますものであることは間違いないところです。

 わたしたち被爆者の「眼の玉の黒いうちに核兵器が完全に廃棄」されることを願わずにはおられません。






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