関東大震災と町田

関東大震災と町田 

原町田を襲える朝鮮人二百名は、さらに相原、片倉の両村を侵し、農家を掠め、婦女を殺害せり。
吉村昭「関東大震災」(文春文庫)1977
−−「関東大震災と朝鮮人虐殺――80年後の徹底検証」山岸秀著
より重引

山岸氏は、横浜市で「横浜震災救護団」をつくった山口某らの略奪、武装強盗などについてふれている。
また、在郷軍人会が朝鮮人虐殺で果たした役割が大きかったとしている。
80年前の当時、町田でどのような動きがあったか、もう生存者はほとんどいないだろうが、記録に残っているものなどで、どんなものがあるだろうか。
ご存知の方はご教示下さい。




『多摩川誌』より

5.3 関東大震災
(1)運命の11時58分
 1923年(大正12)9月1日,9月とは名ばかり,真夏の暑さが残る昼少し前,東京をはじめ南関東一帯が未曽有の大地震に見舞われた.関東大震災と呼ばれた大地震であった.震源地は相模湾の北西部でマグニチュード7.9という烈震であった.当時原町田に住んでいた前田敏一はその体験を『関東大震災の思い出』の中で次のように語っている.「八王子の学校を早く帰ってきた私を,父が釣に連れてゆくというので,近所の溝をあさり,みみずを掘り餌箱を父に渡した.折柄食事のおかずは豚肉のシチュウで,よいにおいが空腹をうった.この頃の町田は都市ガスはもちろん,プロパンさえなく,カマドに大きな鉄鍋だった.もちろん焚木は薪である.なにか突然境川の方からゴーッという地鳴りと同時にぐらぐらときた.その震動は私どもが理解している地震というイメージをはるかにこえていた.上下動と水平動の混合でこの世の終わりを思わせた.全く初期微動等は感じられず,ゴーッのぐらぐらであった」(参110)
(中略)
 多摩の被害をみてみると,人的被害は比較的少なかったが,それでも南多摩郡では死者28人,負傷者47人を数えるに至った(参111).全半壊戸数は6,001戸にも及んだのである(参112).しかし産業に及ぼした被害は決して少なくなかった.南多摩郡町田では「一番被害を受けたのは田圃です.でこぼこになり,あちらの端は欠け,こちらの端は山になり,これは自然に揺すぶられて山になったものです.鶴川辺で一番被害を受けたのは柿の生産です.養蚕に次いでの収入源で,米のとれないときの生活の補助をしていたのが禅寺丸(この地方一帯の名産柿の名)でした.ところが,震災のために柿が全部だめになってしまいました.それは柿の根がすっかりいじめられてしまったからです.それが震災後昭和16年かに1回なったように記憶しています.極端なことを申しますと昭和20年まで自然の収穫はありませんでした.田圃などは地割れによって水を張ってももたず,したがって米の収穫はいくらもなかった」(参113)といわれた.

(2)震災のパニック
 関東大震災の起こったとき,先の内閣加藤友三郎首相が8月24日死亡したことから山本権兵衛(ごんのひようえ)が組閣命令を受けて閣僚選考を行っていたときであった.そのため加藤内閣の外相であった内田康哉(こうさい)が臨時首相として大震災の緊急対策に当たった.内田がこの時期最も懸念したのは第一に治安問題であった.東京を中心とする交通,通信はほとんど使えず,政治機能も麻痺状態であったため,避難民が群集心理にかられて不穏な行動に出たら手の付けようもない状況を生むことが予想できていたからであった.為政者の頭の中には米騒動時の民衆暴動の影がちらついていたといえよう.そのため9月3日,水野練太郎(れんたろう)内相は東京市と府下7郡,神奈川県一円に治安維持を目的とした戒厳令を布告した.多摩に出された布達書をみてみると,
     憲兵隊設置ノ件通牒
  大正12年9月4日 登戸憲兵派遣隊
  村役場在郷軍人分会,青年団御中
 1.9月3日 東京市東京府下7郡 神奈川県一円ニ戒厳令ヲ布告セラレ戒厳地境内治安維持ノ為ノ立川,府中,登戸,長津田,原町田,八王子ニ憲兵派遣セラル
 2.9月4日 稲田村登戸憲兵派遣隊ヲ設置シ事務ヲ開始ス
   右及通牒候也(参114)
 とあり,三多摩の中心の市に憲兵隊が配置されたことがわかる.そもそも戒厳令は,戦争や内乱などの非常時に出されるのが普通である.だが今回のこの布告はある意味では異常性を帯びていた.すなわち,そこには朝鮮人,社会主義者が暴動を起こしたといった流言飛語が切っ掛けとなって出されたものであったからである.
 「不逞朝鮮人が来襲」とのうわさがどこからか流され始めたのは9月1日夜から翌2日朝にかけてであった.しかし初めは「富士山が大爆発した」とか「大津波がくる」などの災害のデマと同じものであった.ところが,そのデマは誠しやかに「社会主義者や朝鮮人が放火している」とか「不逞朝鮮人が井戸へ毒を投げ,放火,強盗,強姦をした」といった流言となっていた.中でもまるで目で見てきたかのように話すものも現れ,うわさはアッというまに東京全市を覆ったが,しかし警察,軍隊の意図的な宣伝があったことは事実であった.それは流言を広めることで,その流言を理由に「不逞鮮人」,「赤化日本人」の弾圧をもくろんだからであった.
 震災の異常な混乱の中で,人々の理性は完全に喪失していた.また,大衆が朝鮮人の来襲を簡単に信じ,恐れたのは,朝鮮を植民地として支配し,抑圧と差別していた現実とも密接に結び付いていたからであった.

 朝鮮人暴動の流言が広まると同時に各地では青年団,在郷軍人会の手によって自警団が組織されたという.自警団は刀,竹やり,鎌,中にはピストルや猟銃で武装していた.当然上からは警備に関する注意事項として,
 1.治安ヲ乱スカ如キ流言蜚語ヲナスヘカラス
 2.各村ノ警備団員ハ警戒中禁酒スル事
 3.鮮人其ノ他治安維持上警戒ヲ要スルヘキ人物ヲ発見シタル場合ハ速ニ憲兵又ハ警察官ニ通報シ指示ヲ受クヘシ若シ受クル暇マナキ時ハ任意同行シ憲兵又ハ警察官ニ引キ渡スヘシ
 4.警戒中ト雖モ銃砲及兇器ヲ使用セサルコト
 5.鮮人又ハ其ノ他ノ者ヨリ暴行脅迫ヲ受クルノ処アル時ハ直チニ憲兵ニ通報スヘシ
 6.安寧鉄序ヲ保持スル為メ必要ナル状況ヲ憲兵ニ通報スヘシ
 7.青年団及在郷軍人団ハ毎月二回以上憲兵ニ連絡スル事(以上)(参115)
が出されていたが守られるわけもなかった.町田の前田敏一は当時を次のように回想する「二日の十時ごろだったと思うが三丁目の勝楽寺(原町田)入口脇で米屋を営んでいた田原の秀ちゃんという四十五,六の人が在郷軍人の外被を着て,ゲートル巻きの足袋はだしで鉢巻き姿も凛凛(りり)しく日本刀をたばさんできた.曰く『京浜方面で朝鮮人が地震の混乱に乗じ,井戸に毒を投げ入れつつ大挙して町田へ押しよせてくる.十六歳以上の者で日本刀のある者はそれを持ち,無い者は竹槍を持って天神様へ集合してくれ,こまかい作戦はその時にする』と伝え次へ回られた.私共は十四歳だったので残り,父や近所の人はさっそく竹槍作りをはじめたが誰れの顔面も蒼白だった.誰れかが鋭利にそいだ槍の部分を油で焼くと先がささくれないなど真剣だ」(参116)
 彼らは通行人を検問「まず行き先を聞かれた.そして1から10まで数をよまされるのである.なぜ数を読まされるのかと聞くと,朝鮮人は5と10の濁音が出ないのでわかるということであった」.そして言葉が不明瞭だとじつに残虐な方法で殺したのである.それは単に自警団だけではなかった.軍にしろ警察にしろ行為は同じだった.また軍や警察は朝鮮人虐殺と合わせて,労働運動家や社会主義者にも同じ迫害を行った.そこには朝鮮人暴動は社会主義者の扇動といった事実無根の流言を流布させ,このチャンスに社会主義者を一掃しようとするもくろみがあったからである.9月3日東京亀戸警察署に連行された南葛労働会の河合義虎ら9名は,署内で斬首され,また9月16日には,アナーキストの大杉栄が妻の伊藤野枝と甥の橘宗一(6歳)とともに憲兵大尉甘粕正彦によって殺される事件が起こっていた.狂気が日本中を横溢していたとしかいいようのない事実であった.
 あまりの残酷な現実に,政府も国際世論をおもんばかってか,9月5日には内閣告論として山本権兵衛が次のような通達を出したが「今次ノ震災ニ乗シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク鮮人ノ所為若シ不穏ニ亘ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官に通告シテ其ノ処層ニ俟ツヘキモノナルニ民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラス又諸外国に報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ際会シタルニ基因スト認メラルモ刻下ノ非常時ニ当リ克ク平素ノ冷静ヲ失ハス慎重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我国民ノ節制ト平和ノ精神ヲ発揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ」(参117)


 虐殺に責任を負うべき政府,軍,警察,自警団の行為は不問に付されていた.こうして無事無根のデマのため,朝鮮人,中国人,日本人で虐殺された人数は6,000名を越えたのである.だが,1923年10月22日,東京弁護士会「鮮人暴動調査委員」は次のような声明を東京の各市町村に配布した.
 「拝啓御承知の如く過日の大震災に際して鮮人の暴行盛に宜伝せられ或は放火殺傷強盗強姦毒薬投入等の事実を目撃し若くは之を受けたる者ありしに拘らず責任ある某方面に於ては早軽にも鮮人暴行若くは放火の事実なしと放言せるため犠牲的に奮起せる自警団員其他の者より鮮人に対せし殺傷は単なる流語蜚語に惑はされたる行為なりと観察せらるる恐有之殺傷行為を為したる者の刑事責任火災保険問題,治鮮上人道上外交上に及す所甚だ尠からずと存じ候加え之を其儘放置せんか武士道を以て世界に誇る我大和民族の一大恥辱にして且つ光輝ある我歴史に一大汚点を印せる事と存じ候依って本会は鮮人犯行事実を明にし以て憂慮すべき上記悪影響を一掃せんと茲に奮起せる次第にて候併して右調査の上一部を各自警団に依頼仕り度しと存じ候につき時節柄御繁忙中甚だ恐縮の至りに存じ候へ共御庁管内の各自警団所在地及其代表者の氏名,住所を至急御報知相成度伏して御願申上候大正12年10月22日 東京弁護士会 鮮人暴動調査委員」(参118).確かに異常な状況の中に起こった不幸な事件ではあったが,しかしこの史料の持つ意味は日本人にとって重いものである.


多摩川誌

定価20,000円(送料共)
昭和61年3月29日発行
企 画  建設省関東地方建設局京浜工事事務所
     〒230 横浜市鶴見区鶴見中央2の18の1 Tel:045(503)4000
編 集  多 摩 川 誌 編 集 委 員 会
発 行  財団法人 河 川 環 境 管 理 財 団
     〒160 東京都新宿区新宿5丁目17−5  Tel:03(200)5677(代)




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