●こどもの国と戦争--大貫のり夫 ジャーナルより

大貫のり夫 ジャーナルフリートーク ニュースより
(大貫さんより転載の了承をいただきました)

No:159こどもの国と戦争 (1)

ニ中(現翠嵐高校)生徒の「遭難慰霊の碑」
横浜第二中学校(現横浜翠嵐高校)生徒の「遭難慰霊碑」
 私は、先月、29日の日曜日、奈良地域へ「憲法改悪反対、憲法9条を守る」署名集めに回りました。
 すみよし台方面から、こどもの国へ住吉神社の交差点を曲がったところに、横浜第二中学校(現横浜翠嵐高校)生徒の「遭難慰霊碑」があります。翠嵐高校は、私の母校です。

 慰霊碑のご近所の、Iさんから署名をいただいたとき、Iさんは「感心ですよ。戦争が終わってずいぶん経つのに、よく花々が供えられていますよ」と話されていました。
郷土史研究家で、桜台にお住まいの綾部宏さんに、この慰霊碑について話を聞いたことがあります。綾部さんは、横浜翠嵐高校のOBで、青葉区の郷土史に係わる第一人者です。

 1944年(昭和19年)、現在の子どもの国にあった陸軍の兵器補給廠田奈部隊に、県立横浜第二中学校の生徒たちが勤労動員されていました。同年11月30日朝、横浜線長津田駅から、軍用トラックで田奈部隊へ出勤する生徒たちが、部隊直前の住吉神社付近で、対向から来た将校車を避けそこない、奈良川にトラックごと転落し、若い6名の生命が失われる痛恨の事故が発生しました。

 戦後、事故から9年経った1953年(昭和28年)、社会人となった同級生たちが「慰霊碑」を建立しました。
 碑文は「六つのみたま ここにしづまる 田奈の川 花もふりそそげ 雪もみだれよ」国学院大学教授 武田 祐吉 と刻まれています。

 綾部さんは、地域のコミュニティ紙にも、「この碑は戦争の反省を踏まえた痛ましい出来事を表す。こどもの国という平和の地の影には、田奈部隊という戦争の地があったことを、後世に正しく伝えていかなければならない」と話されています。
 当時、青葉区の地は、草深い人里離れたところでした。その平和な山村にも、戦争の悲惨な傷跡があったのです。

こどもの国と戦争(2) 平和の碑
■ニュースNo:162

 こどもの国の平和の碑
 「こどもの国と戦争(1)」で、田奈兵器補給廠に勤労動員され、遭難して命を奪われた6人の県立二中・現横浜翠嵐高校の生徒の「慰霊碑」の話を載せました。

 その際、桜台にお住まいの郷土史研究家の綾部宏さんからいただいた資料の中に、神奈川高等女子学校・現神奈川学園の動員学徒有志による「平和記念碑」の写真がありました。実は、山梨に嫁いだ私の姉は、神奈川学園の卒業生なのです。
  その「平和記念碑」は、こどもの国のゲートをくぐり、管理棟の右上の丘の上にあります。
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 第二次世界大戦中、神奈川高女の生徒が勤労動員され、現在のこどもの国の地にあった、陸軍の田奈兵器補給廠で、高射砲弾・手榴弾などをつくっていました。

 1945(S20)年2月7日、馬車から貨車への引込み線のプラットホームで、棒地雷の積み込み作業中に大爆発が起こり、馬と6名の作業員が即死しました。このとき、神奈川高女の生徒1名が、給食当番のためにたまたま通りかかり、事故に巻き込まれ片足を切断する重傷を負いました。緑区通史では、この事件は、かん口令がひかれ、軍の秘密として処理された、と記載されています。
  爆発事故から51年経った1996年3月、「白百合の丘」と名づけられた旧女子学生休憩所があった丘の上に、「平和記念碑」が建立されました。
 その碑には、「戦争のない世界を願って」と題する、こどもたちへのメッセージが刻まれています。
 「『こどもの国』は、第二次世界大戦中『東京陸軍兵器補給廠田奈部隊』と呼ばれ、園内の森には高射砲や手榴弾などの砲弾を作る工場とたくさんの弾薬庫がありました。

 戦争が激しくなった1944年から1945年、神奈川高等女学校の学生であった私たちは、国の命令で勉強をやめ、この工場で砲弾をつくる作業につきました。その砲弾が地球上のだれかを傷つけたのではないかと思うととても恐ろしい気持ちです。戦争を再び起こしてはなりません。

 この思いをこめて女学生休憩所跡の丘に、平和を祈る碑を建てました。平和な世界の中で、こどもたちがのびのびと育ちますように」。

こどもの国と戦争(3)

砲弾の製造・貯蔵庫
■ニュースNo:163

こどもの国開園40周年記念の「写真・絵画展」に、戦時中、現在のこどもの国と同じ場所にあった、陸軍田奈兵器補給廠で造っていた高射砲の砲弾の薬きょうが展示されていることを耳にしました。
 それ!と、時間の合間を探して、秘書役の妻とともに、こどもの国へ行きました。5日午後3時半、同「写真・絵画展」最終日の閉館30分前でした。
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展示場の一番奥のガラスケースに、補給廠でつくられていた、機関銃の弾丸や薬きょう、さらに、火薬運搬の道具など、数点が展示されていました。
 高射砲砲弾の薬きょうは、直径13〜15cm、長さは1mぐらいでした。
改めて、勤労動員させられた神奈川高等女子学校の卒業生のみなさんが、こどもの国に建立した「平和の碑」の碑文を思い出します。
 「…私たちは、国の命令で勉強をやめ、この工場で砲弾をつくる作業につきました。その砲弾が地球上の誰かを傷つけたのではないかと思うととても恐ろしい気持ちです。戦争は再び起こしてはなりません…。」
 私は、いま「平和憲法を守れ!9条を守れ!」の運動の先頭に立とうと頑張っています。そして、思想信条を超えて「平和憲法」を守るという一点で結集している、「平和憲法を守る市民の会」のメンバーの一人として、7月23日(土)、青葉公会堂で開かれる「未来へ 世界へ 平和憲法」の集いを成功させたいと張り切っています。
 私がその日訪れたこどもの国は、若い緑が隆々と燃え上がり、すっぽりと昔のことを覆いかぶしていました。しかし、こどもたちの平和な未来のためにも、事実として「陸軍田奈兵器補給廠」を正確に知らせる施設がほしいと思ったのです。

こどもの国と戦争(4)

松岳院
■ニュースNo:164

  松岳院

 こどもの国線の「おんだ」と「こどものくに」の中間、最近開通した踏み切りのそばに「松岳院」というお寺があります。
 「憲法9条を守れ」の署名活動で、奈良地域に入った際、終戦の年、奈良の山林に米軍機が墜落し、その搭乗員の米兵の遺体が、奈良町の松岳院というお寺の埋葬された、との話を小耳にはさみました。
 早速 先日、7月23日の憲法集会「未来へ  世界へ憲法 平和」のお誘いをかねて伺いました。
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 松岳院のご住職のお話では、「終戦の年4月の夜、奈良の山林に米空軍機が墜落、大爆発炎上し、数人の米兵(緑区通史では一名)が死亡した。
 村民が、その遺体を松岳院の境内に埋葬し、供養した」とのことです。緑区通史では、戦後、米軍が、こどもの国の地にあった「陸軍田奈部隊」を接収した際、捕虜虐待の疑いで、墓地を発掘調査したが、丁重に葬られていたことから、却って感謝されたと、記載されています。

 ご住職のお話では、「当時10歳だったのでよくは覚えていないけど、先代の話では、米兵の遺体は、その後、テキサスの戦没者の墓地に埋葬された」とのことです。
 そのお墓の跡を見せてほしいと要望しましたが、 宅地開発され、お寺の位置も移動したので、今はまったくわからない、とのことでした。


こどもの国と戦争(5)

奪われた土地(1)
■ニュースNo:172

こどもの国に残る弾薬庫跡
 こどもの国にあった、旧陸軍田奈兵器補給廠(田奈弾薬庫)は、「非国民の家は鉄条網を張って出入りできなくする」として、奈良の住民から強制的に土地を取り上げたものです。
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 2年8月9日付け 神奈川新聞のよこはま瓦版「都筑の丘 今むかし」に、陸軍が奈良の地を田奈弾薬庫の候補地ときめて、土地の収用に取り掛かった当時の記事が載っています。

 土地提供者の一人三沢仲司さんは 「昭和8(1933)年ごろから、見かけない人が、こんな山や畑、たんぼを歩いていた。鉄砲撃ちでもないし、服装もきれいだと、村でうわさになっていました。
  昭和13年に入り、奈良小学校に呼ば れました。近衛師団の人が、大きな地図 を黒板に広げ、住吉神社と盛円寺から奥  の土地をお召しあげするとの説明がありま  した。立ち退きを命じられた17軒は、期日 までに急いで家を解体し移転しました。まさ に、寝ずの作業でした」と語ってくれた。
と記されています。
 収用された土地の面積は、95万平方?。奈良には、何代も住み続けていた農家が9戸あり、農地も家も失うことは大変なことで、なかなか承諾できなかったと、緑区通史に記されています。
左の図は、田奈弾薬庫(当時)の弾薬庫と建物の配置図。弾薬庫の数は33ヶ所で、半洞窟市会貯蔵庫とた。なっていた。現在、確認できる弾薬庫は18ヶ所です。右の図では、斜線の四角が弾薬庫、黒の四角が建物。


こどもの国と戦争(6)

奪われた土地(2)
■ニュースNo:175

田奈弾薬庫への引き込み線 続田奈郷土史から
 旧陸軍田奈弾薬庫(現在のこどもの国)の用地は、住民に有無を言わさず、一方的に、近衛師団経理部が買い上げたものです。
 その面積95万?(25万坪)。緑区通史には、次のように記載されています。「値段は10?(1反)当たり山林120円〜150円、畑320円〜400円、田400円〜600円とされ、家屋移転費は、坪あたり43円で、それまで住んでいた家の半分も建てられない額であった。この時の教員の初任給は、月額50円であった」。

 1?は100平方メートルですから、山林で言えば1平方?あたり0.12円となり、つまりただ同然に取り上げられたのです。

 当然、この買い取りに難色を示す住民は出てきます。そういう“お上”に盾つく“不心得もの”については、「前年(1938年・昭和13年)に公布された国家総動員法や、諸統制令を持ち出し威圧し、話合う余地はまったくなかった。
 応諾の遅れた地主は、師団司令部に呼び出され、『非国民の家には、鉄条網を張って出入りできなくする』などと脅され、無理やり承諾印を押させられた。余りにも強圧的なやり方に耐えかねて、精神に異常をきたした者まで出たととりざたされた」(緑区通史)という状態でした。
------------------------------------------------------------------------こどもの国と戦争(7)

番外編
■ニュースNo:177

 旧陸軍田奈弾薬庫(現在のこどもの国)の用地を、当時の近衛師団が1?あたり12銭で買い上げた問題で、「ただ同然」という表現でよいのかといことについて、今度は、奈良にお住まいのTさんから、メールが入りました。

 「ちなみに、昭和 18 年に刊行された、三省堂の辞書『明解国語辞典』(金田一京助編) の定価は、4 円です。これは、A6 版の携帯用の辞書です。
 この携帯用の『明解国語辞典』一冊が 4 円なのですから、土地の買い上げ値段 12 銭は、ただ同然だといっても過言ではありません。」とのことです。
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大正生まれの母に聞いてみました
私は、生き証人でもある大正9年生まれの母に聞きました。「そうだねぇ、もう忘れたょ。でもねぇ、召集令状『赤紙』が1銭5厘だとよく言われたいたよ」「おじいちゃんが出征したとき、お兄ちゃんがお腹にいて、みんなが『出征万歳!万歳!』と叫んでいるの、悲しくて、悲しくて涙が止まらなかったよ」「そうだ、いいものがある」といって、ごそごそと、セピア色に変色した三冊の「暮らしの手帳」を、本箱から出してきました。三冊とも戦争にかかわるものです。

 1968年8月号は、「特集 戦争中の暮らしの記録」、同9月号には、花森安治さんの「武器を捨てよう」「地球上から一切の戦争をなくすために」、そして、もう一冊はautumn1970で「見よ ぼくら一銭5厘の旗」というエッセイが載っていました。
そのエッセイの一節です。
 軍隊というところは ものごとを
 おそろしく はっきりさせるところだ
 星一つの2等兵のころ 教育掛りの軍曹が
 突如として どなった
 貴様らの代わりは 一銭五厘で来る
 軍馬はそうはいかんぞ
 聞いたとた あっ気にとられた
 しばらくしてむらむらと腹が立った
 そのころ 葉書は一銭五厘だった
 兵隊は 一銭五厘の葉書で いくらでも
 召集できる という意味だった
 つまり、12銭とは当時の葉書8枚分だったのです。


子どもの国と戦争…

最終回
■ニュースNo:180

 今回で、「こどもの国と戦争」は、終わりです。今回も含め、8回の連載でした。きっかけは、5月に、奈良地域に憲法改悪反対署名を集めに回った際、署名をいただいた方との間で、こどもの国と、そこにあった、旧陸軍の田奈弾薬庫が話題になったことでした。青葉区にも、戦争の傷跡があったのです。
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住吉神社前方にあった引き込み線のホーム。
 最終回にあたって、二つ残念なことがあります。ひとつは、時間をやりくりして,こどもの国へ取材に行った際、園内の白鳥湖の北西岸にある、旧陸軍弾薬庫の隧道を見ることができなかったことです。そこは、ボートに乗らないと行けないところですが、すでに、ボート貸し出し時間を過ぎていたのでした。。

 ふたつ目は、戦後の田奈弾薬庫のことです。米軍が同弾薬庫を接収し、1965年に、こどもの国が開園されるまでの話を、調べられなかったことです。

 7月23日の青葉区憲法集会で、「学徒勤労動員」の経験を語られた、田奈にお住まいの杉山さんは、「戦後、現在の田奈駅の前の道を、赤い布を掲げて、横浜方面に向かう進駐軍のトラックの列を、何度も見かけたよ。あれは、きっと、朝鮮戦争に使う弾薬を運んでいたんだよ。」と、私に話をしてくれました。

 ことしは、戦後60年の節目の年です。そして、時あたかも8月1日、自民党が9条を全面改悪する内容の、改憲条文案を発表しました。それは、「戦争放棄」をタイトルからも、条文からも削り、9条2項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」を削除しています。

 私は、「こどもの国と戦争」を連載して、「戦争はいやだ!」そして、「9条を守るぞ!」という思いをいっそう強くしました。
(写真は、続・田奈郷土史から)

http://www.ohnuki.jp/news/news.cgi?cmd=s&sc=free

大貫のり夫 ジャーナルより(大貫さんは日本共産党横浜市議です)




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