進駐軍専門の勤労者を募集

進駐軍専門の勤労者を募集

1945年9月24日の『毎日新聞』に「町田町は進駐軍専門の勤労者を募集している.これまで隣組の輪番制の奉仕で好成績をあげてきたが,相当長期間にわたるので失業対策も含めて募集するものである」として「奉仕先は町田町付近の連合軍進駐部隊,募集人員,男100名,女子50名,年齢20歳〜50歳,作業は男,清掃,女,洗濯,報酬は男15円,女10円」(参4)と報道していることでもわかる.
(参4)『町田市史』下巻(1976)

町田で兵隊相手をしていた女性は「私たちがいなければ町田の戦後の復興はあれだけ早く行なわれなかったはず」(参5)と断言したというが,ここにも敗戦日本のひとつの姿があった.かの女たちは昼夜をわかたず兵隊と町を徘徊,町の喧噪は,酒と女とジャズで一層激しいものとなっていった.こうした反面基地は占領日本を象徴したものであった.日本人の立入りを完全に禁止し,周りは鉄条網で厳重に囲われ,完全武装をした兵隊が四六時中見張りをする様相は無気味でもあった.
(参5)『町田市史』下巻(1976)


国民の食料事情は1946年に入ってきすます深刻化した.配給の遅れは日増しにつのり,1週間,10日は当たり前となっていた.この年の5月,皇居前広場で大規模な食糧メーデーが起こった.国民は飢えていたのである.違反を承知で人々は買出しに急場をしのごうとした.多摩の農村にも都内からの買出し部隊が続々と訪れた.町田の鶴川,忠生辺りでは米,麦,いも等,口に入るものならば何でも売れたという.そのため農家の中には月に1万から2万といった現金収入は珍しくなかった.ちなみに町田小学校の25歳の教師の月給は3,700円であったという(参8).
(参8)『町田市史』下巻(1976)
多摩川誌より重引





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