“補給廠で迎えた終戦”

元神奈川の衆院一区でトップ当選した、共産党の石母田達さんの
「激動を走り抜けた八十年」より。

“補給廠で迎えた終戦”
 「私は終戦を、神奈川県の相模原・淵野辺にあった、相模補給廠(現米陸軍相模補給廠、旧陸軍造兵廠東京工廠相模兵器製造所)で迎えた。
 技術将校だった私は、そこで当時(○にヶ)マルケと呼ばれていた新兵器の研究・開発にたずさわっていた。

 しかしそれは未完成のまま、特攻兵器(一種の<人間爆弾>)として使われることになり、私はその「特攻乗員」の一員に選ばれ、待機中、運命の日・8月15日となったのである。

 その日からマッカーサー元帥が厚木飛行場に到着する日までの2週間に、私が目にした出来事は、私に日本軍隊への限りない不信と絶望感を引き起こさせた。
 敗戦を認めない一部の将校・下士官が、補給廠の建物に篭城し徹底抗戦を叫ぶ一方、主計将校幹部の中には、米軍が来れば女子はすべて強姦されるとデマをとばして、女子職員を着の身着のままで追い出し、莫大な彼女らの退職金を持ち逃げする者もあった。

 また補給廠には、当時世間では貴重品といわれ、目にすることもできないような食用油、ガソリン、皮革、食糧などが大量に貯蔵されていた。
 軍の最高幹部を先頭に、兵達によるそれらの持ち出し隠匿が、終戦翌日の朝から大々的に始まった。彼らはこれらの盗品の隠匿に、付近の住民の防空壕などを利用したため、付近住民の怒りは爆発した。
 汗水流し、食うものも食わず供出させられた、これらの物資を奪還しようと、住民の集団が、連日のように消防車を先頭に、竹槍をもって廠内になだれ込み、倉庫を襲った。
 一部では住民と阻止する兵との間に発砲騒ぎまで起きたという。

 「信じていたものが、根底から崩れ去り、絶望と不信に陥っていた私のところに、どうやって入って来たのか、次兄・正が突然現れた。
 兄は、私に繰り返し、絶対にムチャなことはするな、命を無駄にしてはならないと話した。
 小さい時からの軍国主義教育によって、次兄の革命理想には、反発さえもっていた私も、人間的にはもっとも信頼していた次兄の、諄々と説く言葉に、心から耳を傾けるようになっていた。

 やがて、軍隊から復員して、会社(池貝鉄工所)に戻った私は、夢中になって社会主義文献を手当たり次第に読みあさった。
 急速に政治的、階級的に自覚を高めた私は、その年の十一月、結成準備中の青年共産同盟(現日本民主青年同盟)の呼びかけにこたえて、同盟の一員となった。

 当時、反動内閣の、戦争犯罪責任を免罪にする一億総懺悔(ざんげ)運動を利用して、会社は大量の労働者を解雇し右翼組合幹部はこれに協力した。
 私は、会社側に近い立場にあったが、次兄とも相談して、労働者の側にたって、働く者の生活と権利のために闘う決意を固めた。
 私は推されて組合長に立候補し、わずか一票違いで当選、数百名の労働組合の委員長となった。
 その後、1ヶ月余りのストライキ闘争など労働組合運動の中で、若い私は急速に鍛えられ成長した。満二十一歳の時のことであった。(二〇〇〇・五・一記)

石母田 正(いしもだ ただし/しょう、1912年9月9日 - 1986年1月18日)は、日本の歴史家。専攻は日本古代史、日本中世史であり、古代から中世にかけて多数の著作がある。正統派唯物史観の持ち主として広く知られ、戦後の歴史学に多大な影響を与えた。戦後、歴史学を志した人々の多くが石母田の著書を読んだことにより、歴史学を専攻することを決意したと告白している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『中世的世界の形成』『歴史と民族の発見―歴史学の課題と方法 』『石母田正著作集』全16冊などがある。(引用者)




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