町田米軍機墜落事故について

東京オリンピックの年の4月5日の町田米軍機墜落事故について
この事故などに関して、河口栄二著「米軍機墜落事故」(朝日新聞社1981年)が
およそ30ページにわたり、関係者からの取材をふくめて書いています。
ぜひお話を伺いたいと思いました。

亡くなられた肉屋の吉田さんのご遺族の一人の方(娘さん)は、8年後に
キャンプ座間勤務の米兵運転の車に20-30メートルも跳ね飛ばされて、
治療の甲斐なく死亡されたということです。(同書より)

1977年9月7日、横浜市青葉区に墜落した燃料満載の米軍機による事故
被害者がかつぎこまれた、青葉台病院での話。

徹夜で看護にあたっていた婦長の小川とし江は、自分と米軍機墜落事故
との因縁の深さを改めて思い知らされた。

今度で3度目の”付き合い”になるからである。

小川が同病院に勤務し始めた1969年(昭和44年)の6月21日夜、
病院の近くに米軍機が墜落し、負傷したパイロットの看護にあたった。

 その5年前、「死者4人を出した町田の事故現場からわずか50メートルの
至近距離にいながら、幸い怪我はなく、ただ無数の小さな木の破片と土砂を頭
から浴び、真っ黒になっただけだったが、脳天を叩き割られたかと思ったほど
の衝撃音は、いまも耳についてはなれないという」。

そして今回の事件である。

町田の墜落から5ヶ月と3日たった大和市館野の墜落の直前、あと一キロの
至近距離で、小田急線鉄橋に、あるいは電車に激突したかもしれない事故がお
きている。

いずれも、多大な人命と財産に、取り返しのつかない損害を与えた(かも知れない)事故だった。

最後の、相模川の河原に落ちた事件で、パイロットは死亡したが、それ以
外の3件(町田、大和、横浜)はすべて脱出しほぼ無傷か軽症で救助された。





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