空母--原子力の限界(2)

原子力空母の横須賀配備に反対するこれだけの理由(2)
ハンス・クリステンセン
「空母--原子力の限界」より


Hans M. Kristensen,The Nautilus Institute; William M. Arkin, Joshua Handler
Aircraft Carriers: The Limits of Nuclear Power
空母--原子力の限界

Part II:
Crises Response
Nuclear Carriers Preferred?
第二部
危機対応--原子力空母は優先されたか?
地域紛争、とりわけ、燃料補給が乏しい隔絶地域における紛争への対応を命じられた空母にとって、原子力推進ということがいかに重要か、海軍当局により幾たびも焦点をあてられてきた。中でも、インド洋における空母の展開が焦眉の問題だ。
「数年前の危機の時、インド洋への空母戦闘軍の派遣が必要となったが、派遣された空母は原子力推進のエンタープライズだった。。。危機が進んだ局面で、(インド洋に)事前展開配備のタンカーは1隻もなかった。幸いに当時動かせる原子力空母が1隻あった。」--Rickoverリッコーヴァー(リコーバー)提督は1979年3月、下院の海軍原子力推進計画に関する公聴会で指摘した。同提督は、「そのようなことはしばしば発生した、つまり、危機において、この原子力船は緊急に対応できる」とのべた。

 提督が触れた例は、残念ながら正しくない。空母エンタープライズは1970年代初期のインド洋における数次の有事に使われはしたものの、同じように、”ミニ空母”をもつ水陸両用群や、通常型空母もまた数回使われたのである。

 それでも、ワシントンの海軍首脳部は原子力空母を増やす資金を得ようとする余り、1971年12月にアメリカ市民救済のためパキスタン沖に海軍部隊を展開するよう命じられた時、政府中枢はエンタープライズを任命し、それ以外の戦艦は地域司令官に任命された。

 海軍が原子力空母のみ建造するようになった1970年代と1980年代に、通常型空母は世界中の危機に対応すべくよりしばしば召集された。実際、海軍自身、危機的状況に対応したり、大規模な洋上作戦に参加するときの空母運用にあたり、通常型より原子力推進型をえこひいきすることなどなかった。

1980年から1992年までの45回の危機の、3度ののうち2回は重油推進空母の派遣だった。(第4表)

太平洋艦隊司令官のジェームズ・ライオンズ提督が1987年3月の下院公聴会の証言であげたのは、「昨年、私は空母レーンジャーに乗船し、西太平洋への58日間の、前例のない急派を行った。実によく動いた。通常型空母と、Asia Gamesアジア大会期間中に仁川にいた戦艦ニュージャージーが一例で---緊張時の間中朝鮮半島の安定を保証する自信を与えてくれた。そしてまたレーンジャーを再び朝鮮へと向かわせたが、今回のはチーム・スピリット演習に参加するためだ。これらは通常の、予測しうる作戦である。」というものだった。

原子力空母が人質に
 原子力空母推賞者は常に通常型空母では危機対応で不利だとまくしたてる。
1972年に海軍作戦部長は議会で、通常型空母ケネディが前年地中海危機への対応で急派されたが、原子力推進でなかったから燃料節約のため速度を落とさなければならなかった。さらに同艦は地中海到着時に燃料補給が必要だった。原子力空母ならば2日早く到着しただろうし、燃料補給などなしに、直ちに任務につけただろう」と。

同部長は証言で、空母ケネディがなぜ減速したのか説明しなかった。1970年9月から1971年2月のこの航海で、同空母はエンジンの設計ミスという、通常型空母の推進力そのものとは無関係の理由による問題をかかえていたのだ。それが海軍に伝わり、危機に対応する前段での同艦の展開を妨害したのだ。

 皮肉なことに、海軍が議会に伝えず、議会も尋ねなかったもう一点は、通常型空母にかえて原子力空母を送らなかったのはなぜか、ということだ。当惑した答は、
エンタープライズが配備できなかったのは、同空母が当時ニューポート新造船所で八基の原子炉への燃料注入のため複雑なオーバーホールをしており、試験運転を終了したのは1971年の1月19日であった。

 しかしこの、原子力空母対通常型空母の話は、1979-1980の人質事件の経験と、海軍の原子力空母配備をすすめようという試みの前では色あせている。

 1979年おそく、イランの人質事件とソ連のアフガン侵入が起きた時、海軍は空母ニミッツを主戦力とする核推進戦闘群を地中海からインド洋に転用すると発表した。

 海軍は後に、インド洋に定刻内に到着するため、原子力推進力のずぬけた能力は平均25ノットを維持できたのだ、と語った。

インド洋でニミッツは、原子力空母アイゼンハワーと交替するまで118日滞在した。イタリアのナポリからの1980年1月4日の出発より5月22日、ノーフォークに帰還するまでの144日間の洋上で、ニミッツはどの港にも寄らなかった。カーター大統領はヴァ−ジニアのノーフォークまで同空母戦闘群をたずね、9ヶ月に延長された配備という乗員が払った犠牲に感謝をささげた。そのシーンは、海軍の原子力依存の必要性というものに完全な同意を与えたかのようだった。

原子力空母売り込みで見過ごされたものは、インド洋に定刻までに到着した最初の艦船は通常型空母だった、ということだ。太平洋で6ヶ月半の配備が終わろうとしていたキティ-ホークは、1979年11月21日にスービック湾からアラビア海に航海し、空母コンステレーションと交替した空母ミッドウェーと合流せよと命令された。

 これら2隻の通常型空母はニミッツが到着するまで任務に着いた。このように、コンステレーションとミッドウェー両空母は、ニミッツより早くアラビア海に着くことができたのだ。コンステレーション空母群は、1979年3月7日に同海域に着くべく命令され、3月16日、わずか9日の航海で現場に到着した。空母ミッドウェーも9日間の航海だった。

 途中寄港がなかったにもかかわらず、ニミッツはインド洋で3ヶ月半の洋上補給を行ったが、これは平均2.7日に1回であった。そうしたレベルの外部補給はめずらしくないし、10年後の湾岸戦争における原子力空母、通常型空母の経験とも大体において合っている。通常型空母同様、燃料補給を余儀無くさせたのは、ニミッツの艦載機の行動そのものだった。同空母の航空団はのべ16,544時間の飛行を記録し、補給艦から間断なく給油を受けたのだ。ニミッツはその後原子力空母アイゼンハワーの戦闘部隊と交替したが、同群は1980年4月29日にインド洋に入り、海軍が「第二次大戦後最長の配備期間」とよんだ251日の配備を終え、米国に帰還した。
「海軍の最長記録だというのは間違っている。通常型空母はもっと長く配備されていた。ベトナム戦争で空母コーラル・シーは、1964年12月7日に本国から離れ、1965年11月1日に帰還するまで、331日間配備という記録を打ち立てた。

 1979年に海軍はインド洋への進出を維持するために平時計画をはるかに越えた戦艦の配備延長をおこなった。

ミッドウェーは同年の間、84日母港におり、280日以上航海をした。海軍作戦部長が自慢したように、9ヶ月の配備が通例化した。空母ミッドウェーとキティ-ホークは、「朝鮮戦争、ベトナム戦争を含め、第二次大戦以降最長の洋上配備となってい」た。

 通常型空母は総じて、インド洋に最も多くの物資を運んだ。1980年代にインド洋、アラビア海に八隻の空母が計10回の航海をした。その内原子力空母はたった3回である。原子力空母は同年、総合計で723日、インド洋上で配置についたが、それは、それぞれのべ、アイゼンハワーが199日で一回、ミッドウェーが118日で二回、コンステレーションが110日で一回、ニミッツが108日で一回であった。他に参加したのは、コーラル・シー、インデペンデンス、およびキティ-ホークの各空母であった。

 早いテンポでの作戦は、通常型空母とその護衛艦だけでなく、全艦船の耐久力を試した。海軍作戦部長のT・ヘイウォード提督は1980年2月19日、議会で「インド洋の米海軍は目下、100%近い行動速度で展開中だ。ほとんどずっと入港せずに海上にいる」と語った。当時の議会公聴会で原子力空母の強固な推進者である支出委員長ジョン・ステニス上院議員は、「インド洋における海軍の展開の実態--つまり、原子力空母はすぐれたものではない、ということを証明した現実を、まざまざと知ることとなった。

 ターナー提督:コンステレーションは最も近代的空母航空団のひとつだ。言及したほとんどすべての航空機を積載している。F14を二個中隊、A-7 一個中隊、E A-6E一個中隊、混合一個中隊、対潜一個中隊、後方支援航空機を積載し、対潜戦闘ヘリ、言及していない航空機、旧式の戦術偵察機撮影機、RF-8G3機をもち、インド洋あるいはアデン湾での偵察、対潜戦闘、戦力展開、シ−レーン支配、情報伝達など、いかなる任務をも達成する用意がある。完全かつ柔軟な装備が詰まっているのだ。

ステニス上院議員:それは原子力空母のことですか?

ターナー提督:いえ、それは通常型空母のことです。

ステニス上院議員:通常型空母?

ターナー提督:はい。

ステニス上院議員:言い換えれば、インド洋が危機に直面した時、報復のために、列挙したすべてを持っているということですね。それとも、もし1千マイルかそれ以上行こうと望むなら、それが(通常型空母で)可能だというんですね?

ターナー提督:はい。それが(空母)戦闘グループの一部なんです。空母附随として、二隻の洋上戦闘艦、1隻の潜水艦、燃料と兵器を戦闘群の活用のため輸送する後方支援船1隻がつきます。ですから、これは国家目標遂行上、完全に統合され、自足しうる統合部隊であります。

ステニス上院議員:世界に他に、あなたが列挙したような恐るべき軍事力をもったものがありますか?

ターナー提督:はいあります。比肩しうる11の、米海軍戦闘グループと呼ばれるものがそれであります。


 もし(インド洋の?)危機が減退し米国の中東における軍事的関与が増大したとしても、原子力空母はインド洋への配備にとって、有益と言うよりは障害となっていた。

 1981年にエジプトが大型船にスエズ運河を開放した時、通常型空母は運河の活用を恒常化させたが、空母の危機対応が東地中海と中東で続いた時、核船舶はいつでも、核船舶の同運河通過にたいするエジプト政府の禁止のため、不利益を被った。
 1981年5月6日、空母アメリカは再開後最初に、運河を南下し通過した空母となった。
 続いてインデペンデンスが5月15日に北上通過した。同様に、空母アメリカ、プレブルが10月21日にスエズ経由で地中海に入った。
統合参謀本部はただちに通常型空母の同運河通過を使った配備の意義を悟った。
10月13日、フォレスタルは非核随行艦とともにアラビア海から(スエズ運河経由で)地中海入りした。
 1983年1月にある空母が北アラビア海へ配備を命じられた時、ニミッツは通常型空母の空母アメリカがスエズ運河を使うように交替させざるを得なかった。
 同年その後、原子力空母カール・ヴィンソンが地中海からインド洋へ回航を命じられた時、その原子力推進力は同艦のスエズ運河使用を妨害し、結局アフリカを周回させられたのだ。
最初の空母の(スエズ運河)通行より、地中海とインド洋間の海軍の展開力を妨害し続けたのだ。1984年遅く、エジプトは原子力空母アーカンサスの運河通行を認めたものの、通行は余りにも物議をかもしたため、同艦は夜間、ひっそりと通行しなくてはならなかった。
ある米軍将校は、「彼らはなんだかうまいことやったし、こっちはそれを振り落としたくはなかった」と語った。
 海軍は、これはエジプトが原子力に対する態度を軟化させるサインではないかと希望を持った。しかしウクライナの1986年4月のチェルノブイリ原子炉の爆発は、エジプトの通過許可を見直させた。同年夏、エジプト政府は、米原子力空母エンタープライズのスエズ運河運航許可を求めた米政府の要望を正式に却下した。インド洋から祖国への途上、ある米軍将校は、エンタープライズはおかげで、南アフリカの南端を回ってかなり長距離ルートを取らなければならなくなった、とのべた。
キャスパ−・ワインバーガー国防長官はワシントンの記者会見でエジプトの原子力空母スエズ運河通行禁止の動機について論ずるのを拒否した。
ペンタゴンと国防省は若干の原子力空母が通過を許されたことなど、エジプト政府に何らの影響も与えなかった、と強調した。
 マッキ−海軍原子力推進部長は1987年2月の議会公聴会で、原子力空母の通過ならびに寄港問題を討議するにあたって、
「われわれはこの難問に30年も取り組んできた」「エンタープライズとアーカンサスは(スエズ運河を)通過したが、われわれはエジプト政府と八年も長ったらしい論議を交わしてきた。最初は私が海軍原子炉(部門)に来る前で、国内でやっているのと同じ事故対策を海外でもとるのをわれわれが保証するのを(エジプトが)受諾するか、という所まで取りかかっていた。外国の原子力に対する敏感さとやり合うのは、どんどんむずかしくなっているよ。」
 チェルノブイリはエジプト人との論争の針を再起動した。エジプトが核艦船の通過を禁止するのはなぜか、を証明しようとして、マッキ−提督はいった「ある意味では金銭、純粋さ、そして単純さだ。彼らは”君たちが原子力空母に割増金を払い、病院を建てる資金をよこすなら、事故が起きた場合に災害救助できるだろう。この勘定はものすごく高くつくよ”と言うんだ。」
 エジプトの、原子力船の運河通行禁止は継続したが、1990-91年の湾岸戦争の時は、原子力艦船の通行は許された。
 しかしこれは、ディック・チェイニー国防長官が空母アイゼンハワーの運河通行の許可を個人的に依頼した結果だ。
 原子力巡洋艦ミシシッピとヴァージニアも、原子力空母セオドー・ルーズベルト同様、通行を許されたが、原子力推進潜水艦は断られた。こうした経験にもかかわらず、原子力艦船の通行は常にその時代の政治環境のとりこなのである。
 従って、セオドー・ルーズベルトが1993年7月にもう一度同運河の通行を認められた時、米海軍は120万ドルを通行料として払うことに同意し、エジプト政府は同艦が通過した時、運河の両岸に厳重な警戒をほどこしたのである。



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