原子力空母の横須賀配備に反対するこれだけの理由(3)

原子力空母の横須賀配備に反対するこれだけの理由(3)


Hans M. Kristensen,The Nautilus Institute; William M. Arkin, Joshua Handler
Aircraft Carriers: The Limits of Nuclear Power
空母--原子力の限界

Part III:Wartime Use
原子力空母の戦時使用

A:ベトナム戦争当時の空母エンタープライズ---初期配備

 ベトナム戦争の最初からは、原子力空母は戦闘に活用されなかった。1964年の春、4隻の通常型空母、タイコンデロガ、ボンノム・リチャードおよびキティ-ホークが西太平洋に配備された。キティ-ホークは最初の "Yankee Team"という海軍の任務につけられた。8月2日に北ベトナムの砲艦が米マドックスを攻撃した時、それに応戦したのはタイコンデロガの艦載機だった。

 第一陣の空母派遣から4ヶ月後、議会が8月10日にいわゆるトンキン湾決議を
採択して大統領にたいし、米軍に対するいかなる武装攻撃への反撃のため必要なあらゆる手段を取る権限を与えた時でも、海軍は通常型空母キアサージと同レーンジャー の派遣で応えただけだった。
 海軍の原子力空母としても、広報に忙しかった。1964年の7月31日、原子力空母エンタープライズと巡洋艦ロング・ビーチ、ベインブリッジは世界の巡行中、地中海から呼ばれ、7つの海での原子力艦船の運用上の独立を証明した。この新艦の超度級空母は、同僚の通常型空母がトンキン湾で忙しい間中、”核攻撃を加える”(核付きで?)アフリカを周回しインド洋と太平洋を突っ走っていたのだ。
 北ベトナムへの空爆が開始されたとき、攻撃を真先に開始したのは通常型空母タイコンデロガとコンステレーションだった。
 同様に、海軍の1965年3月26日に始まった最初の大規模な対北ベトナム空爆であるローリング・サンダ−作戦に参加したのも、ハンコックとコーラル・シーからの空爆だった。
 作戦速度は海軍に、大西洋艦隊から太平洋の東南アジア (Task Force 77)への空母配置替えをもたらした。配置替えになった最初の大西洋の空母はインデペンデンスで、1965年5月10日にノーフォークを離れ、アフリカ沖を回遊した後スービック湾に6月17日に到着し、Task Force 77への所属空母の数をはじめて5隻とした。
 ノーフォークを母港とする海軍の原子力空母エンタープライズは、インデペンデンスに同行することができなかった。それは1964年11月から1965年7月まで乾ドックに入り、八基の原子炉への燃料注入をしなければいけなかったからだ。新しい炉心は1970年に燃料を再補給するまで保った。
 エンタープライズは1965年10月のベトナム初配置まで、最初の空母運用が行われてから一年以上もの間、準備が終了しなかったのだ。
 エンタープライズは1965年10月ノーフォークを出航し、1965年12月から 1966年6月まで131日間を航海に費やし、新しい西海岸の母港、カリフォルニアのアラメダに向かった。そこから同空母は、1973年8月15日に議会が東南アジアにおけるすべての軍事作戦を停止するよう命令するまで、ベトナム戦争でさらに5回の巡行をおこなった。
 エンタープライズのベトナム戦争への配備は、原子力推進艦の最初の戦時使用であったが、非常な注目と関心をよんだ事柄だった。例えば、1966年8月6日の上院
での討論で、ジョージ・エイケン上院議員は同僚に、「私は12月2日にたまたまサイゴンにいたが、その日にエンタープライズが動き出した。誰もがエンタープライズはすでに配備されている通常型艦船よりうまくやっているぞ、といったもんだ。」running circles around the conventional
 このレトリックはさらに議会に原子力空母を建造するのを確信させるのに役立った。原子力空母と通常型空母の功績についての独自の判断は出ていなかった。

原子力空母についての記録は予算面または技術的意図から流された宣伝材料、うわさであった。われわれの研究によれば、(空母の)航空機スペースの追加や速力向上、洋上期間の延長、そして戦時の態様に関する海軍の売り込み戦略は、いつでも不正確か不完全であり、これらの誇張された要求を実現するに至らなかった。
エンタープライズ元司令官のヘンリ−・ミラー海軍少将は、1966年の議会証言で、戦域に最初に入ったとき同艦が、通常型ボイラーを働かせるため、煙突や空気取り入れ口などを取り払ったことでうまれた甲板上のすきまのおかげで、他のどんな巨大通常型空母よりも一個中隊余計に運ぶことができた、とのべた。
 この主張はうそだ。エンタープライズは6回の戦時配備で、四回は9個中隊を、二回は10個中隊を積載した。だが、ほとんどの通常型空母は9個中隊を、また6隻の通常型空母は10個中隊を積載したことがあるのだ。事実、レーンジャーは三回、10個中隊を運搬したが、これは戦時では、エンタープライズをふくむどの空母よりも多い。さらに、キティ-ホークは6回、戦時配備されたが、1973年11月から1974年7月の配備で他のどんな空母より多い11個中隊を積載しただけだ。比較のために、1974年9月から1975年5月の追加配備の間、エンタープライズは9個中隊を積んだだけだった。
 エンタープライズも戦時に通常型空母より多くの中隊または分隊を積載したことはない。

速度の増加

 艦載機数だけでなく、海軍は原子力空母のユニークな特徴の例として、配備速度の向上などをあげた。ミラー提督は1966年の原子力エネルギー合同委員会への報告で、エンタープライズがノーフォークからいかに事前油送船や補給艦船なしに配備されたか、通常型空母は途上で数回燃料補給を必要とするのに、と長広舌をふるった。
 これまた正しくない。エンタープライズは東海岸から配備された通常型空母より早く配備されたことはない。 1965年10月26日に出航し、12月2日ベトナムの戦域に到着するまで、エンタープライズが航海に費やしたのはは38日だ。第7艦隊管下への編成替え(in-chop)は27日後に行われた。参考までに、
インデペンデンスはその一度目の配備をはじめてから26日後に、アメリカは三度目の配備をはじめてから27日後に編成替えとなった。
サラトガが1972年4月11日に東海岸から配備された時、エンタープライズより一日少ない、わずか37日間で到着し、さらに28日後に再編され、たった9日間で作戦配置についた。サラトガの配備はベトナム戦争中に東海岸から行われた配備の内最も速かった。
 原子力推進だからといってエンタープライズは補給なしでは済まなかった。通常型空母より多くのジェット燃料を積載できるのだが、”洋上補給(UNREPS)は日常的にあった”と年次航海報告で司令官はのちに述べている。”数多くの洋上補給はウィンチの損耗や部品損傷率を従来になく高めた”と。152回もの補給が行われた。

エンタープライズの最初の配備の時、海軍は全原子力艦船を太平洋艦隊に移しかえると決定した。エンタープライズと巡洋艦ベインブリッジは1965年に母港を換え、ロングビーチ、トラクストンが1966年にこれに続いた。
全原子力艦船を太平洋艦隊に移しかえるとの決定は、以前行われていた、原子力洋上艦によって得られた作戦体験についての検討に基づくものだった。
海軍は、「(原子力)戦闘群は、その永続性、自給性、融通性によって太平洋の広大な領域に最も適用しうると見なされていた」という。

 海軍のポール・ニッツェ長官は1967年10月27日に海軍年次会議で、海軍は「西海岸から南支那海まで、通常型空母の平常の移動が15日近くかかるのにたいし、原子力空母を9日間で配備できる」と語った。
 ところが、実際にはそんな配備は起こらなかった。その代わり、エンタープライズの場合、ベトナム沖で戦闘群77に編成替えするため母港から要した平均日数は、25日だった。

 もう一度太平洋へ配備された時も、エンタープライズは他の多くの通常型空母に比べかなり速く到達したとは言えない。アラメダからベトナム沖の戦域への最短航海は、1972年9月の12日から10月3日までの21日間だった。
ちなみに、ミッドウェーは同距離を1972年4月の10日から30日までの20日間でやったし、戦域-アラメダ間の最速航海は1964年に、タイコンデロガにより、たった6日間で成し遂げられた。

戦域配備時間

 ベトナム戦争の全期間を通じて、延べ21隻の空母が86回の戦時巡航を行い、
ベトナム沖で延べ9、178日を費やした。
1966年に九隻の攻撃型空母と、ハイブリッド型インタ−ピッド、対潜戦闘型空母4基が戦域で1,253日間、1965年より17%多く滞在した。1967年には10隻の攻撃型空母と対潜戦闘型空母4隻が都合755日の戦域滞在をおこない、1971年には請う同水準は低下し、わずか587日間の滞在となった。
 海軍作戦部長は海軍長官に対し、1906年代半ばにさらに原子力艦船の建造を求め、戦闘作戦中の「戦闘群の主たる基準の一つは、攻撃作戦を行うため、その群がどれくらいの割合で戦域に留まれるかである」と語った。
 戦域滞在時間の割合をはかると、キティ-ホークは、一巡航で平均、69.5%を記録したもっとも有効的戦闘群だった。キティ-ホークの最高記録は 1972年2月17日〜11月28日の79.3%だ。エンタープライズの記録はコーラル・シーに次いで第三位で、平均66.3%だった。ベトナム戦争中最高滞在をとげたのは、1965年の一月から三月まで(連続59日)戦域配備をした通常型空母のレーンジャーだった。ちなみに、エンタープライズの同最長日数は1965年12月2日より1966年一月15日まで (45日)である。
 Yankee Stationの、戦闘群77を随行する空母は、一度に通常5週間までの配備となる。上述の通り、太平洋艦隊が保持する空母は余りにも少なく、その不足を補いベトナム沖に最大限の空母を背馳するために、いくつかの方法がとられた。一つは、通常の戦域配備期間である三週間を延長することだった。もう一つは、通常6カ月の(一航海あたり)配備期間を延長することだった。その記録は、コーラル・シーが打ち立てた1964年12月7日から1965年11月1日までの331日間である。また、エンタープライズの最長配備期間は 1972年9月12日から-12
June 1973年7月12日までの、たった274日であった.
 かくして、配備と配備の間の折り返し準備の時間が、空母の運用を伸ばすために削られた。例えば空母ハンコックは1965年の11月10日、最初の航海からもどってからたった164日母港で過ごしただけで、再出航した。ハンコックの
折り返し準備期間はさらに数回短縮され、キティ-ホークはベトナム戦争中、母港滞在がわずか145日を記録した。一方、エンタープライズの最短母港滞在日数は、最初の戦域配備の1966年6月21日から11月19日までの150日だった。同空母の最長母港滞在期間は、原子力燃料機関のオーバーホールによる1969年7月2日から1971年6月11日までの343日間だった。

 いかなる通常型空母であれ、このような滞在記録を作ったことはない。

戦闘行動

ベトナム戦争の全期間中、エンタープライズの戦域滞在日数は、ハンコック(842日)やオリスカニー(782日)といった大層旧式の空母にも劣る、7位でしかなかった。同日数の最高は第二次大戦中の空母コーラル・シーの876日で、それより14才も若いエンタープライズのそれに比べ30%も長いものだった。同様に、エンタープライズはハンコックやオリスカニーのようにそれぞれ八回と七回の航海を行った空母よりたった6ヶ月古いだけなのに、わずか6回の航海をしただけだった。
 第八表はエンタープライズと6隻の通常型空母について、ベトナムでの行動を配備期日、戦域配置期日、戦域離脱期間、および戦域離脱の回数などを比較したもの。また、これらそれぞれの項目について、各空母が行った巡航回数に照らして平均値を求めている。このデータによると、エンタープライズはもっとも多く配備されたことも、戦域にもっとも長く留まったことも、通常型空母よりも長い戦域滞在期間を記録したこともなかった。

 平均すると、コーラル・シーはエンタープライズの227日よりも長い256日間の最長戦時巡航を行った。キティ-ホークは、エンタープライズの111日に比べ、134日間という1回の巡航としては戦域配備の最長記録をもつ。さらに、同じく1回の巡航あたりの戦域滞在日数は、どの通常型空母よりも、原子力空母の平均日数の方が少ない。
1964年12月7日から1965年11月1日まで331日間の最長配備
の間、コーラル・シーは105,000マイル走り、航空団CVW-15は10,800回以上戦闘発進し、160回の主要戦闘に参加し、6,000トンの弾薬を投下し、16,500回以上の発射を行った。
1967年7月から1968年4月までの132日間のより短い1回の配備 (199日少ない)で、 コーラル・シーは11,328回、戦闘および戦闘支援のため発信し、1964-1965の最長巡航期日より10%も多い回数を記録した。

 エンタープライズが1965年12月2日に原子力空母として初めて戦闘配備のため戦域に赴いた時、初日に合計137回の発進が行われた。翌日、同艦は165回の発進の新記録をマークした。だが経験が蓄積されると、こんな記録は数知れず塗り替えられた。1971年3月10日、レーンジャーとキティ-ホークが1日233回の発進を記録し、6日間続けて、3年前からのあらゆる有効攻撃記録を書き換え続けた。
 航空団の活動上の決定的要素は、原子力推進にではなく、艦船の大きさである。海軍の、洋上にある最大の空母から展開するすべてのジェット(ママ)航空団のうち最大のものとして、エンタープライズ/CVW-9チームは、極めて当然ながら最も多くの出撃を行った、とエンタープライズ航海日誌はのちに記している。
 総じて、エンタープライズはベトナム戦争で通常型空母にくらべ優れた働きをしなかったものの、”成果”をまとめた記録は、新規の原子力空母調達を合理化するための直接的証拠として使われた。

B。湾岸戦争における原子力空母
ベトナム戦争で原子力空母がさしたる成果をあげられなかったことは、同型のものがわずか1隻しか存在しなかったことが原因でもある。1990-199年の湾岸戦争では、艦隊には6隻の原子力空母があり、原子力推進が目につかないなどということは全くのミステリーだ。6隻の戦闘に従事した空母のうち、セオドー・ルーズベルトたった1隻だけが原子力空母だった。原子力空母は概して、湾岸戦争での配備に不向きだったのだ。ベトナム戦争初期と全く同様に、エンタープライズは核燃料補給のため待機中で航海できなかった。ニミッツは1990年6月に帰還したが配備の用意が整わず、カール・ヴィンソンは1990年10月に1年間のオーバーホールのため海軍プジェ・サウンド造船所に入る準備中だった。当時最新の原子力空母
アブラハム・リンカーンは1989年11月に就役していたが、ヴァ−ジニアのノーフォークからカリフォルニアのアラメダへと移動中で、1991年半ばまで配備の準備は完了しなかった。
 それにかわってイラクとの戦闘に赴いたのは通常型空母だった。原子力空母D。アイゼンハワーは最初に地中海の第6艦隊での通常配備からイラクのクウェート侵攻に対応すべく派遣されたが、それは巡航の末期であり、”砂漠の嵐作戦”が始まる前に、通常通り本国に”入れ替え”帰国となった。
 実際、海軍が補給を減らし、高速の運航をし、より高い作戦遂行率を得、戦域の滞在期間を延ばすことを目的とし、原子力空母の”特殊な能力”を用いた、という事を示唆するものはない。通常型空母は、原子力空母の動きに十分対抗できたし、しばしばそれを上回ったのだ。

 湾岸戦争に投入されたいくつかの空母戦闘群の構成からみても、原子力推進であることが、それぞれの空母により少ない給油護衛艦の附随を可能にしたことも、戦闘群の中に足のおそい艦船の割合を少なくしたということも、また、原子力空母に再長距離を航海させることができた、ということを証明しなかった。推進力ということでいえば、戦闘群の構成は全く成りゆきまかせであり、この戦争に巡洋艦をわずか3隻しかはりつけられなかったことは、海軍が原子力護衛艦を、たとえルーズベルト戦闘軍と言えど、重要な特徴だと認識していなかったことを示している。
通常型空母こそが湾岸戦争とその後始末における主役だったのだ。
 1990年8月から1993年6月まで、非原子力推進の空母は、延べ38ヶ月就役し、海軍が空母をペルシャ湾海域に配備した時間の70%近くを占めた。通常型空母は、原子力空母にくらべ、二倍配備された。

 1976-1988年のベトナム戦争では、原子力空母は湾岸当時より長い配備はなかった。1隻当たりの配備は、通常型空母で3.2ヶ月、原子力空母ルーズベルトで2.8ヶ月だった。

Response to the Iraqi Invasion
イラクの侵略への対応

 1990年8月2日、イラクがクウェートに侵入した時、米海軍には近海にたまたま二隻の空母がいた。インド洋にいた通常型空母のインデペンデンスと地中海にいた(原子力空母)アイゼンハワーである。ほとんど同時に、インデペンデンスが北アラビア海に派遣され、アイゼンハワーは紅海に移動せよと命じられた。エジプトが原子力艦船のスエズ運河の通過を許可しなかったため、アイゼンハワーの地中海から同運河経由での移動は、ディック・チェイニー国防長官からムバラク・エジプト大統領への個人的要請を必要とした。
 米国から派遣された最初の空母は、通常型空母のサラトガで、8月7日にフロリダのメイポートを出航した。皮肉にも、サラトガの配備は、9月2日にジブラルタル海峡を通過し、バージニアのノーフォークの母港へ戻る原子力空母アイゼンハワーと交替するためだった。

 1990年当時、艦令34才のサラトガは、同海域に戦争期間中ずっと留まって十分な耐久性と忍耐力を示し、合計7ヶ月半もの、どの空母のいかなる配備記録をも上回り任務を終了した。サラトガとその護衛群の配備は、イラクの侵入以前に立案されていたが、危機対応で真先に動員されたのは、空母ジョン・F・ケネディ
で、同艦は発令後わずか四日の8月15日にノーフォークを出航した。その四日間に、同空母群は、通常では30日かかる、6ヶ月分の必要な補給をやりとげたのだ。

 2番目に配備されたのは通常型空母レーンジャーだった。数カ月も準備したあとの、まさになされようという攻撃に、通常型空母たる同艦が出発すると発表されたのは12月7日、ブッシュ大統領の米軍の倍加という12月8日付け発表の一部としてだった。

 米国から派遣された最初の、そして唯一の原子力空母は、セオドー・ルーズベルトだった。配備は11月27日に発表され、1ヶ月後の12月28日に、同艦は通常型空母アメリカ戦闘群とともにノーフォークを離れた。ルーズベルトの大西洋横断は、通常型空母よりも遅かった。
 空母ケネディは、8月15日に出航し、米国沿岸での1週間の訓練を終え、同22日、大西洋横断を開始してからたった9日後の、同30日に地中海に入った。同空母は、様々な出来事、状況説明、寄港、演習を経て、9月15日に紅海北部に到着した。これに比べて、ルーズベルトはノーフォークを12月28日に出航し、直ちに大西洋横断にとりかかった。地中海入りは12日間の横断の後の1月8日正午で、1週間後、1月14日にスエズ運河を通過し、紅海北部に至った。アメリカがこの原子力空母に全期間随行した。湾岸戦争当時海軍には、もう1隻使用可能な原子力空母があったが、それを配備しないこととした。
ニミッツが1991年1月1日から3月16日まで、東太平洋の第三艦隊へと編入された。海軍は同艦を(中東に)送れたとはいったものの、ニミッツは十分な働きをしなかった。「十分な働きをしない空母を送ることは、経験不足の飛行士と艦船を送るだけだ」と海軍はNavy Timesに言い訳した。

Carrier Placement
空母の配置

湾岸戦争における空母の作戦は、紅海とオーマン湾、および北アラビア海と、ペルシャ湾とに分けられる。戦争が始まっており、ミッドウェーとレーンジャー、ルーズベルトが、ミッドウェーに置かれた全体の司令のもと、まずペルシャ湾戦闘群 (PGBF) を結成した。紅海では、サラトガ、アメリカ、ケネディが、ケネディに置かれた全体の司令のもと、まず紅海湾戦闘群(RSBF)を結成した。1月16日夜、連合軍の空爆が開始されたとき、ペルシャ湾に展開していたのはレーンジャーとミッドウェーの2隻の空母だった。砂漠の楯作戦の開始まで、空母が同湾内で定期的に展開することは決してなかった。インデペンデンスとミッドウェーは、動員局面mobilization phase において制限された領域で空母のテスト運航を行うため短時間同水域に入り込んだ。ルーズベルトも同様に湾岸に派遣されるとの決定が下され、戦争の期間を通じて、空母アメリカは他の三隻の空母といっしょになり、合計四隻となった。スエズ運河通過を終え、紅海に1月14日到達したルーズベルトは、直ちにペルシャ湾へ続航するよう命じられた----それは、原子力推進だから速い、という理由でも、出力燃料からの独立という理由でもなく、サラトガにせよケネディにせよ、紅海を離れるのは、両艦の四ヶ月の統合打撃訓練を無駄にさせるだろう、という理由からだった。核の宣伝と言うよりは世界的な実践的な軍事的要求に基づく決定の結果は、ルーズベルトが爆撃開始より二日遅れの1月19日に湾岸に到着し、最初の攻撃を1月20日に開始したことだった。こうしてルーズベルトは、原子力空母だからといって本国からの航海で空母アメリカより優位だったこともなく、またその原子力推進力が同艦をより速く、予定以前に配備させるようなこともなかった。

 紅海における三隻の空母の標準的な作戦運用は、6日毎のローテーションだった。2隻の空母が攻撃機を発進させ、同地域のもう1隻が”ガソリン散歩道”と呼ばれる、弾薬、物資、燃料の補給を行う。それぞれの空母は、四日間、夜間と昼間の両サイクルの戦域配備を行い、その後、二日間の”非番”となる。非番の空母はまだ様々な防空警戒を解くことができない。
 戦争が進むにつれ、ペルシャ湾で作戦中の空母はかれらの目標へと接近しはじめた。これは2月4日開始され、クウェート海岸との距離は280海里から250海里へと接近した。2月15日以降、空母はクウェート市からわずか180海里の距離へと北上した。2月7日、空母アメリカは紅海湾戦闘群RSBFより派遣され、ペルシャ湾の三隻の空母増強となった。空母アメリカは通常型空母だったが、ペンタゴンは後に同空母の動きを、空母特有の利点を活かしていた、とこう述べた。
 「機動性は空母戦闘群の最大の利点だ。空母アメリカの戦闘群は、当初北部イラクの目標に対する戦略航空攻撃として使われたが、紅海よりペルシャ湾へと2月初めに移動した。この再移動は、クウェート内のイラク軍に対する戦術的作戦にペルシャ湾から参加する戦闘群を増強させた。通常型空母の同僚艦に比べて、原子力空母の洋上艦が、前進配備で後方に位置したことは意味なしとしない。ペルシャ湾における原子力空母ルーズベルトの作戦は、機雷やイラクの攻撃から原子力推進装置を防御する手段として部分的制約を受けたようだ。ルーズベルトの作戦区域は他の空母よりもっと南側であり、また原子力空母は、機雷に手ひどくやられていた他の大型軍艦のように、簡単にやられ得たのであった。

航空作戦
 6隻の空母が擁する航空機は、湾岸戦争中に固定翼機で18,117回の出撃をおこない、その95%は”戦闘”関連だった。固定翼機の出撃の内、16,899回は戦闘もしくは、直接の戦闘支援を目的とし、残りの1,218回は後方支援の飛行や、新たに到着したり修理した航空機の機能チェックの飛行と、それらの間接的支援行動だった。
 しかしながら、半分に程遠い回数(7,646の出撃)が実際の攻撃用出撃だったのだ。空母航空団の規模は、空母の使命や規模に応じて相当異なっていた。ミッドウェーの58機の固定翼機から最高76機のケネディに至るまで。
 ルーズベルトは72機でサラトガと同じく三位であった。航空団の構成もまた変貌した。一番攻撃主力型の航空団は、48機の攻撃機をもつミッドウェーで、レーンジャーに至っては攻撃機はわずか18機だった。攻撃機36機をもつルーズベルトは、サラトガと同じく4位であった。
 すべての空母が防衛支援のためF-14A Tomcats20機を備えていた。ミッドウェーだけが、他の空母が同戦争中初期に行ったように、多用途のF/A-18 Hornetsの一部を防衛任務につけていた。ミッドウェーのF/A-18 を防衛任務に割り当てることから考えると、40機の攻撃機をもつケネディの航空団が一番攻撃志向が強かったといえよう。

 実際に空母から出撃したのは、もっと--ほぼ50%--当初の戦争計画より少なかった。戦前の試算では、空母6隻は42日間の戦闘で延べ252飛行日が想定されていた。実際には、空母群はたった6日間、全戦力を投入しただけで、飛行日も201を数えただけだった。
 結局、全ての空母の、非番の時期をふくむ空母艦載機は、1機当たり、1日につき平均1.1回の出撃をしただけだった。
 戦争の初日に、海軍は空母4隻から228回の出撃を行った。戦争の最後の1日に、6隻の空母から600回の出撃がされた。
 湾岸戦争における紅海(の空母)からの出撃は平均3.7時間であり、ペルシャ湾からのそれは2.5時間だった。多くの飛行は5時間にわたり、事実上ほとんどの航空機がその使命の最初と最後に空中給油を必要とした。
 紅海の航空機は目標により遠かったのに、飛行サイクルは多かれ少なかれ、ペルシャ湾にいる空母のそれと同じだった。各空母は航空機を14時艦から15時間発進させ、それから非番に入り補修を行い、補給を受ける。
Duty cycles were either morning (AM) or evening (PM)当番は午前もしくは午後 で、00:00-15:00もしくは12:00-03:00に限定され、帰還攻撃の回復時間にあてられる。各空母は、甲板の補修と武器積載以外に、大体9時間の、 times-on-target目標への一斉攻撃を2回、大規模に行った。戦闘空中哨戒CAP(Combat Air Patrol)周回時間は、12時間毎に午前もしくは午後となっている。紅海の空母からの航空作戦は、陸上の給油機の出撃の達成率によって’調整’されたと言い、海軍分析センターCenter for Naval Analysisによれば、戦争の前半、陸上機の給油がもっと利用できたならば、紅海湾戦闘群(RSBF)はもっと多くの攻撃と出撃をstrikes and strike sorties行えたはずだ、とする。
 空母アメリカが2月7日に紅海を離れた後、ケネディとサラトガは1日当たり、三隻の空母とほぼ同じ回数の出撃を行なった。紅海湾戦闘群(RSBF)の空母の内、1隻として出撃発進能力を制約する飛行甲板上の問題を生じたものは無かったという。
 ルーズベルトがペルシャ湾で任務についた後、三隻の空母は交替したが、それぞれ、24時間毎におよそ15時間、航空作戦に従事した。残りの9時間、ある空母は航空作戦をやすむだろう。
 ルーズベルトとレーンジャーにとって任務配置は、交替時間の間の、三時間の一斉作戦をともなう、24時間の残りの部分で派生する。

 ミッドウェーの配置時間は、レーンジャーとルーズベルトの交替の中間に位置する。空母アメリカがペルシャ湾に到着し、どう海域の稼動空母の数を4隻とした後も、海軍は主として三隻の空母の同時運用を続けた。2月4日−23日の間に、4隻の同時運用を行なったのはたった二日だけであった。戦争の全期間、ペルシャ湾の空母の4ラウンドに比べ、紅海の空母はおよそ五ラウンドの非番を行なった。紅海の空母は、空母アメリカが2月7日に出発するまで、通常ほぼ五日毎に非番に入ったが、stand down every five days or so、当時、残る2隻の空母は、7日もしくは8日毎に非番の間隔を広げた。戦争の最後の週にサラトガが非番入りした時、
ケネディは、2月17日の10日後の停戦まで、1回も完全な非番は取らなかった。ペルシャ湾の空母は通常、10日か11日毎に非番入りしたが、レーンジャーは最長の継続(当番)時間を記録した。with the USS Ranger
having the longest consecutive period of air(40)
significantly with time.
1月の水上打撃発進はしばしば、ペルシャ湾内の空母からの全発進数の20%を占めた。イラク海軍が破壊された時、停戦に伴いこの比率は五%以下に下がった。同様に、時と共に攻撃用の出撃は劇的に減少した。
 湾岸戦争中の空母の戦闘任務実施率combat mission performance ratesは90%異常だと報告されており、平時の率よりはるかに高いが、ルーズベルトの艦載機のその割合は、戦争期間中の他の五隻の通常型空母のそれ(81から83%)に比べて低かった。ちなみに、艦暦45年のミッドウェーは91%であった。

艦船の運用

海軍は”原子力船の開発費が高いのは、大部分が、信頼でき、たのもしいのを保証する努力によるものだ、とのべている。原子力船には、(99%以上もの)高い原子力への信頼性がある、と。しかし、原子力についてこれまで言及された利点は、湾岸戦争での艦船の運用に関する限り発現していない。湾岸戦争への配備の期間中、原子力空母と通常型空母との間で、待機状態での差異はない。まったく、同戦争では、米海軍の戦闘支援部隊CLFのほぼ60%を占める20隻以上の主要補給船と小型補給船が米海軍部隊を支援した。その40%以上が、1991年1月から三月までのピーク期間であった。
 航空戦の初期には同地域に、22隻の戦闘支援部船と82隻の消耗品関連の船がいた。9隻の戦闘支援船が紅海に、五隻がオーマン湾と来たアラビア海に、八隻がペルシャ湾にいた。サウジアラビアのジェッダは、紅海専用の補給船のための戦闘支援貯蔵施設だったので、再貯蔵、修理、再装備などをスエズ運河を後方支援線として頼ることなく展開できた。
 ルーズベルトが1月15ー16日に航海からペルシャ湾へと、また空母アメリカが2月14日に同じく南下した時、補給部隊が随走した。そうして2月24日、わずか五隻の戦闘支援部隊と17隻の消耗品船が紅海に残り、戦闘支援部隊各1が
オーマン湾と来たアラビア海にいて、ペルシャ湾には同18隻と71隻の消耗品船がいたのだ。
 海軍の展開勢力は、ほとんどのクラスの補給船に、少なくとも90日の滞在を行なうが、湾岸戦争での継続時間でいえば、支援能力は過度にテストされたり乱用されることは決してなかった。

 さらに、後方支援船は、平時の前進配備に比べて、ずっと多くの補給を空母戦闘群に対して洋上で行なった。原子力推進であることがルーズベルト群の補給船に対する信頼を損なうといった違いを生じることを示すものは何もなかった。
 例えば、12月28日に米本土から派遣された二つの空母戦闘群、原子力空母ルーズベルトと通常型空母アメリカの戦闘群は、それぞれの護衛の一環として弾薬船と給油艦を1隻ずつ随伴していたが、どの随伴支援艦も、20ノット以上をだし続けることができなかった。
 ルーズベルトとケネディ(最新の通常型空母)の湾岸戦争中の補給について比較すると、前者が183日間に63回、後者は226日間に78海の補給を行なった。平均すると、両空母は、配備期間中に2.9日に1回の割合で補給をしたことになる。ただ、戦争期間中で見る限り、ケネディの補給は32回で、ルーズベルトは21回だった。もっともこの違いは、ケネディが紅海におり、イラクとクウェートの標的への位置から、より長い飛行任務を課せられ、そのため多くの燃料を必要とした結果だろう。
 原子力推進はまた、出撃範囲を広げたり燃料補給の需要を減らすのに役立つような航空燃料の追加補給での利点にいう点でも、違いを示さなかった。
 ニミッツ級空母は、通常型空母のJP-5燃料の倍の量を積載できるとの言明と異なり、ルーズベルトは、長期的ミッションと航空機の燃料消費の追加を楽にするため追加燃料が消費された紅海に、配備されることはなかった。
 ケネディとサラトガの航空団が、ペルシャ湾にいた空母より42%も高いsortie lengths出撃距離を記録した。さらに、紅海の戦闘空母群は、ジェット燃料需要を減らすために原子力を活用できたはずの砂漠の楯作戦の期間中、紅海と地中海を往復した。ジェット燃料の追加積載という原子力空母の能力は、一見、イラクの目標への攻撃を援護しなかったようだ。
 ペルシャ湾に空母を再配備した動機の一つは、空軍が、オーマン湾内の空母から攻撃を加えるための、十分な陸上からの航空燃料を攻撃計画に折り込むことへの困難と消極性にあった。
 空中給油は空母からの給油機によって、また空軍給油機によって行なわれた。原子力空母は通常型空母よりも航空燃料を70-90%多く貯蔵できると信じられていたのに、ルーズベルトはその燃料補給の利点を活かすため他の空母より多くの給油機を積むことをしなかった。
 ルーズベルトの給油機は、最小の空母レーンジャーよりわずか12%増しの出撃をしただけだ。海軍は1日当たり、航空燃料補給出撃の16%にあたる、およそ42回の空軍給油機の支援出撃を試算していた。残りは、空母積載の給油機で補わなければならなかった。2月13日以降、ルーズベルトからの出撃に S-3改造給油機を1機入れるようになった。ペルシャ湾の空母がクウェートに接近した時、航空燃料への要求は減少した。
 艦船自身は、能力を60%以上に保つよう、必要なだけ給油される(大体3日に一度)。事前計画では、空母と戦闘グループの主要艦船は五日毎に給油する予定だったが、実際はそれ以上に行なわれた(ほぼ、2、3日に一度)し、特にJP-5航空機燃料を積載した。

 空母は戦闘群の中の高速戦闘支援船を、空母自身の護衛艦に給油することによって補完できたが、湾岸戦争における給油艦(機)の適応性は、燃料を他の戦闘群の艦船に提供しなければならないものだった。このように、原子力空母のもう一つの”利点”は、海軍が十分な補給を見い出した現実においては、無効だった。
 また、空母群には、配属された補給船に関して言えば、何らの違いはなく、それは原子力空母に後方支援上のメリットがないことを意味した。
 給油艦は原子力空母、通常型空母の双方に配属されていた。さらに、海軍のCLF(戦闘後方支援部隊)への投資から見ても、通常型空母への給油は問題ではなかった。総じて、海軍艦船への燃料補給はすばらしいものだった、と海軍分析センターはのべている。「MSC軍事海上輸送司令部と海軍給油艦は適宜、必要な、通常および緊急の求めに応じた支援を行なった」。
 全体として、6隻の空母はこの戦争で、イラクとクウェートに12、000トンの爆弾を落とした。
 軍備計画は、イラクの脅威の増強とより激烈な地上戦という、ずっと高レベルの消費をを想定したものだった。想定ではこの戦争における各空母の1日当たりの消費は、実際の推移より62%高く設定されていた。
 このように、装備要求計画が6隻の空母が60日間従事するという最悪のシナリオに基づいていたため、どの空母もさしたる補給上の重大な問題を生じなかった。
ルーズベルト航空団は、およそ2,450トンの、海軍が落とした爆弾のおよそ20%を落とした。これは、他のどの空母による量より多いが、レーンジャーにより落とされた量よりは250トンほど多いだけだ。
空母への弾薬供給は主として、それぞれの戦闘群に属する弾薬運搬船により行なわれた。非番時を除き、空母はほとんど一、二日毎に武器補充をおこなった。ペルシャ湾にいたレーンジャーは当初Nitro (AE-23)により補給され、同艦は後にKilauea (TAE-26)に交替した。(戦争の)最後の二月の20日間(9-28)、Kilaueaはルーズベルトに、7回にわたり1,600shortトン以上の弾薬を供給し、140トンの劣化物質を受け取った。
 紅海では、後方支援はペルシャ湾 とほぼ同様だったが、空母戦闘群を補給する主要な戦闘支援船は(給油・弾薬の)両用船になりがちだった。ただ、艦船の構成には多少の違いが生じたが、それはペルシャ湾より紅海の方が補給しやすかったためだ。結論として、ペルシャ湾より紅海の方に、給油・弾薬の事前集積船が集中していた。
 また、空母の補給作戦は、戦争開始以来全く変化しなかった。「平時に行なわれた政策や演習は同じように戦時によく働いた、補給局はこの戦争を、訓練通り後方支援の任務をやりとげた」と空母ケネディは報告している。
 ペルシャ湾では、航空機により運搬された爆弾の数は、戦局の推移と共に増大した。戦場での攻撃用の弾薬の搬出は、戦略的爆撃を使命とする航空機が運んだ爆弾の数の二倍から3倍になろうとした。
 原子力空母は通常型空母より多くの弾薬と航空機を貯蔵でき、もっと多くの出撃をなしうると言われていたが、そうできたのはサラトガであって、ルーズベルトではなかった。それはこのカテゴリーでは初出である。1月30日、Khafji戦闘で、サラトガはF/A-18機全機を出撃でき、 MK-83-1000-lb. 爆弾10万ポンド、一回の任務での積載として最大量の爆弾を投下した。




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