陸軍幼年学校が空襲で焼けて

八王寺の陸軍幼年学校で学んだ石井 充さんの証言がある。
http://www.tokyo-hachioji-probusclub.jp/5S1D.pdf
第5回生涯学習サロン(2001.3.8)でのものだという。

 東幼は昭和19年戦争激化に伴う疎開で八王子に移転したのであるが、翌20

年8月の八王子大空襲の際被災焼失した。
 この跡地に、戦後建設されたのが長房団地である。

 また「シバタ助教(下士官)」が空襲で待避の際、鉄帽を生徒に貸し自らは無帽

となったため被弾、不帰の人となったエピソードも披露された。
 また、5月25日楠正成が湊川で戦死した故事に因む「楠公祭」に、空襲下にも

かかわらず奥多摩の吉野郷から来校した吉川英治が、「万世一系」の皇室を否

定する記念講演をしたことも感銘深く忘れ難い憶い出であるという。
(以上、引用)

なお、
御陵線
廃線跡(高尾タウン情報)
1945年8月2日の八王子大空襲(東京大空襲とほぼ同量の焼夷弾が落とされ

たほど凄まじかった)で、 隣接した東京陸軍幼年学校(1年前に都心より移転さ

れた。 現在の長房団地はその跡地に建っている)とともに焼失した。
という。
takao.michikusa.jp/haisen.html

同学校跡地がなぜ米軍に接収されず、平和的利用が可能だったか、ある自費出版の本に書いてあった。

 東京陸軍幼年学校の生徒監、今田良男さんの「とってもいい話」で、「敗戦直後のあのたいへんな時代のことである。」

 「建武台」と名付けられた東京陸軍幼年学校の敷地は約十万坪(三十三万平米)あった。
 昭和十九年の開校に備え、前年、土地収用令によって、急遽、いわば強権的に農家から土地を買い上げたのである。そればかりではない。
 平和な農村がこんな軍事施設のために米空軍の爆撃目標となり、家財・人命を奪われた。
 この責任をどうするか。買って出たのは私の生徒監だった今田良男元少佐であった。

 今田さんはこう考えた。
 「地元のご協力のおかげで、わずか二年間足らずであってもりっぱな陸幼教育ができた。一方、幼年学校の存在が空襲を招いた一因となった。恩返しのためにも土地をもとの所有者に返さねばならない」−−。
 そして焼け跡に住み着き、農作業で自活しながら横山村の村長や村議と手を組んで、東京都庁や第一復員省など旧軍関係に折衝・陳情を続けたのである。
 たいへんな苦労のあと、昭和二十三年になって学校跡地の地元への全面返還が実現した。ときに今田さん二十九歳。

 何の報酬を求めるわけではない。ただ陸軍軍人としてとるべき責任として、敗戦時に学校の訓育者のひとりであったというだけで、黙々と返還交渉を続けたのである。
 もしこの努力がなされなかったら、あの広大な国有地は国の財産として、あるいは米軍か自衛隊の基地に使われたかもしれない。
 のち、この土地は東京都の求めに応じ都に売却され、大規模な長房団地として生まれ変わった。 どういう経過でこの土地が住宅地になったのか、おそらくそれを知る団地住民の数は多くはないであろう。

 それにしても、今田さんのやったことは、見事な責任の取り方ではないか。こういう人こそ「花も実もある武人」として讃えられて然るべきだと思う。
 こういう武人に五百日間薫陶を受けたことを、私は心から誇りに思う。
(以上、引用終わり)




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