破壊される多摩丘陵

八王子に住む歴史研究者でもあり,雑誌『ふだんぎ』の主催者として活躍する橋本義夫は,多摩の変貌を一編の詩に託して,緑豊かな多摩丘陵と惜別した.私たちにとって,この詩は重い.

  丘君,雑木林君
  丘君はブルドーザーで削られ    赤ちゃけた肌が
  無惨にも露出している       雑木林君は伐り倒されて
  禿げてゆく            土地ブローカーが悪鬼の如くに
  醜くく荒れ狂う          わが友 丘君
  わが友 雑木林君         君たちともお別れだ
  君たちとの別れがつらい      だが美しい君たちの姿は
  まぶたに残っている        私も君達と一諸に
  消えてゆきたい                        橋本義夫「雲の碑」より

1881年(明治14)1月,府中の演説会に弁士として招かれた東京嚶鳴社の肥塚龍は,次の会に出席のため,人力車を呼び原町田までいくように命じた.ところが車夫は法外な車賃を要求した.なぜなのか.この間のくだりは少し長くなるが肥塚龍の名文で追ってみることにしよう.

 「里程は四里半,東京なれば二時間を費して余裕ある路なれども,僻地の道路四里の里程に三時間を充て午前九時に府中を発するも,十二時には早く原町田に着すべしと期し,車夫を命ぜしに二人曳ならざれば行く能はずと云ひ,其賃銭を間ふに一里三十銭と答ふ,龍等近年地方に往来する少からざれども一里の里程に三十銭の車代を払ひしことを見ず,必ず車夫の賃銭を貧り余輩旅人を窘るならんと思ひ,其賃金の高きを詰りたれども車夫は道路の険悪を弁じて止まず,又強て其賃金を減せば時間の後れん事を恐れ,不満足ながら一里三十銭の車を雇ひ午前九時府中を発したり.

 東京と府中駅との間は都て平地なれども,府中より西南は高丘処処に蟠り,高きもの三四十丈,低き者十余丈,車夫を呼びて前程を間ふに,前面の丘岳は悉く原町田に行くの線路なりと答ふ,府中を距ること半里余にして多摩川あり,川の広さ十余町,中に一線の流水あり,其浅き衣を寰て渡るべし,蓋し冬季の際河水其量を減したるに因るならん,多摩川を渡り行くと数丁にして一丘あり,丘上に登り前路見るに無数の丘岳出没無際涯,或は形臥牛の如き者あり.波濤の如き者あり,残雪日光に掩映し渓間数戸を点せり,此地や東京を隔つる僅かに六七里なれども,道路往来の便なきが為にや人家至って少く,犬鶏声絶へて恰も百里の深山に入るが如き心地をなさしめたり,夫より丘を下り行くと数丁又一丘に遇ふ,車夫曰く阪急なり,請ふ歩せよと,車を下り歩を試むるに丘格別高きにあらざれども樹陰は堅氷路を封し,一とたび歩を失すれば氷上に跌の恐れあり.晴所は雪泥滑にして車輪半を没せんとす,車夫空車を挽て喘を呑む頻なり,其道路の険悪なる事知る可し,行く二里余にして路傍に一茅屋あり,翁媼茶を煮て慇懃に客を労すれども竈煤窓に垂れて面に触れ久しく止るべからず,夫より或は歩し或は車に乗り無数の阜丘を越ゆるに路道悉く泥と氷とならざるはなく,末広君云ふ僕初め府中駅に於て一里三十余の車銭を聞きし時其価の高きに驚きしが,今此険阪(ママ)路に遇ふて車夫の我を欺かざるを知れりと,阪(ママ)を下り阪(ママ)を登り漸くにして平地の如き路を得なり,是則ち八王寺(子)駅より横浜港に往来するの道路なり,車夫曰く原町田駅此を去ること一丁余路亦た平夷なりと,是に於て仙人境を出でて人間界に来りたる心地,車夫を駆り路を急ぎ午後一時過原町田吉田楼に着したり」


多摩川誌より






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