日本国憲法の発布

1946年2月,GHQで完成した憲法草案は直ちに吉田茂外務大臣に手渡された.一読した吉田は驚き,この草案の発表に難色を示した.しかしホイットニーは「もし諸君がこれを拒むなら,GHQ案と政府案とをともに公表して,日本国民の投票によってそのどちらかを選んでもらおう」(参23)と強硬姿勢を取ったため,政府はついにこの草案の受け入れを決めたのである.その後政府は,これを原案として憲法改正に着手,数度にわたるGHQとの折衝の後,3月6日要綱を発表した.そして4月17日,正式に日本国憲法草案として公表,何回かの修正を行った末,10月7日両院で可決(反対はわずか5名であった),11月3日公布された.こうして1947年5月3日施行された日本国憲法は,日本の恒久平和と民主主義実現を目指した真の平和憲法と呼ぶべきもので,そこには,明治の10年代,権利を求めて立ち上がった多くの民衆(とりわけ五日市憲法にみられた民衆憲法の精神)の悲願が56年目にして実現したといえるであろう.

1.4 日本国憲法の制定
(1)日本国憲法制定の起源

 日本はポツダム宣言受諾と同時に新憲法制定の道が開かれたといってよい.そこには次のように書れていたからである.「日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし.言論,宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は,確立させるべし」.

 1945年10月11日,幣原首相はマッカーサー元帥より憲法改正の必要性を示唆された.憲法改正にあまり乗気でなかった幣原内閣も,急遽これを受けて「憲法問題調査委員会」を発足,松本蒸治国務大臣を委員長にして調査に当たっていた.翌46年1月,松本は憲法改正私案を脱稿,2月初め,この案がGHQに提出された(いわゆる松本私案).これを受け取ったGHQでは,その内容があまりにも現状維持的なものに驚き,マッカーサーは直ちに民政局長のホイットニー准将に憲法原案の作製を命じた.ホイットニ−は,ゲーディス行政課長,ラウェル法規課長,ハッシー海軍中佐(3人とも弁護士)とともに憲法起草作業に入り,わずか1週間で起草を完了したのである.

(2)起草されていた民間草案

 ところが1週間で起草された憲法草案にはモデルがあったのである.敗戦と同時に新聞各紙をはじめ,民間の憲法研究者の間では,欽定憲法の民主化要求が起こっていたが,具体的な民主憲法の起草も進んでいた.最も早くに起草された草案では,日本最初の共和制憲法草案ともいわれる高野岩三郎の「日本共和国憲法私案綱」(1945年11月)が挙げられるが,それにも増して注目に値するのは鈴木安蔵,森戸辰男,杉森孝次郎ら7人によって結成された憲法研究会の憲法草案であった.

 鈴木ら憲法研究会員は討議を重ね,12月末には「日本国憲法草案要綱」をまとめ上げたが,実はこの草案の骨子には植木枝盛の私擬憲法「日本国国憲案」が採用されていた.なんと1881年(明治14),自由民権期,日本中を席巻した私擬憲法運動の成果が再びここに甦ったのである(第4章第3節参照).この草案は12月26日鈴木らの手によってGHQに提出された.民政局法規課長であったマイロ・ラウェルは詳細な検討を行いこれを直ちに英訳していった.そしてホイットニーらの起草に参照されたのである.

 この時期三鷹在住の憲法研究者稲田正次も憲法起草の準備を進めていた.稲田は敗戦の3カ月前既に「戦後において断行すべき政治組織の改革要綱」を記していたというが,12月に入り,宮沢俊義を訪問,憲法改正に関する意見書を手渡した.そして翌46年2月には尾崎行雄,岩波茂雄とともに憲法問題について意見を交換し,3月初め首相官邸を訪問して彼らのグループ憲法懇談会で作製した「日本国憲法草案」を提出した.この草案は君民共治主義によるものであったが,しかし稲田の話によると国民の権利の条においては,植木枝盛を十分に参照したことを述べている(参22).こうして,このころ民間では13種に及ぶ私擬憲法が起草されていたことに私たちは注目しなければならないだろう.
多摩川誌より






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