「私録 自衛隊史」から

「私録 自衛隊史」から紹介

警察予備隊の創設にかかわった人が、
「当初私は警察予備隊は警察を補完する力であり、実質的にも警察の一機関であろうと考えていた。」とのべている。

加藤陽三 「私録 自衛隊史−警察予備隊からこんにちまで−」 防衛弘済会 1979 に出ている。
(以下、「私録」)

「当初私は警察予備隊は警察を補完する力であり、実質的にも警察の一機関であろうと考えていた。
 しかし命を受けてGHQと折衝してみると、治安維持の機関とはいえ、当時の警察とは全く違った別個の独立した機関で、むしろ軍隊的なものを米国側が考えていることが次第に明らかになった。」

 加藤氏は、当時国家地方警察本部の総務部長の職にあった人物で、のちに防衛庁政務次官もやった。

 今日、自衛隊の存在が憲法の定義と相容れないから、改憲すべきだ、という論議がある。

 しかし、自衛隊の前身、警察予備隊の創設の経過は、憲法施行後わずか三年あまりのち、九条二項を無視して、日本に再軍備を押し付けたのはアメリカだったことを、当事者の口から物語っている。

「日本の古本屋」では「私録 自衛隊史」のヒットがなく、「加藤陽三」で
以下の3件。」

新警察読本 警察法の解説 詳細表示
加藤陽三 、ニュース社 、昭23
イマヨシ書店 1,050円

警察法逐条解説 詳細表示
加藤陽三 、新警察社 、1冊 、昭22
廣文館 3,500円

東京都制概説 詳細表示
加藤陽三 、良書普及会 、昭18
蟻屋書房 3,500円


他に、
日本の防衛と自衛隊, 加藤陽三, 昭39
わが国の防衛政策 加藤陽三/著 日本教育新聞社
よくわかる日本の防衛 日本経済教育センター編集 日本経済教育センター
防衛法学会:『防衛法研究』座談会/草創期におけるシビリアン・コントロール(増原恵吉・加藤陽三・麻生茂・
など。

保安庁人事局長=1954年
自衛隊の防衛出動の要件である「外部からの武力攻撃」(自衛隊法第76条)と同じだとすれば、それは“不審船”の出没や外国人 ... な武力による攻撃」である(1961年4月21日衆院内閣委員会、加藤陽三・防衛庁官房長の答弁、質問は石橋政嗣議員)

著書から分かる通り、同氏は内務省あがりで、戦後も
「昭和二十一年八月から旧内務省警保局において公安第二課長として、また同局企画課長として勤務していたので、この警察制度改革の問題と正面から取り組むことになった」(「私録」)人物だ。

続いて「私録」は「ドロナワの警察予備隊設置」として、「米側は”軍隊”と考える」の小見出しでこう語る。

 「昭和二十五年七月八日に、マッカーサー司令官は吉田総理宛の書簡をもって、七万五千名の警察予備隊(National Police Reserve)の設置と、海上保安庁の八千名の増員を要請した」

 「私は当時たまたま国家地方警察本部の総務部長の職にあったので、職務上この事務を担当することになった。当時は、以上述べた(在日米軍によってかろうじて保たれていた)ような国内治安の状況だったので、書簡の内容からみて、当初私は
警察予備隊は警察を補完する力であり、実質的にも警察の一機関であろうと考えていた。
 しかし命を受けてGHQと折衝してみると、治安維持の機関とはいえ、当時の警察とは全く違った別個の独立した機関で、むしろ軍隊的なものを米国側が考えていることが次第に明らかになった。」

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 以下、「私録 自衛隊史」からの紹介です。(その1)

著者自身の「私の”予備隊”日記」からの著者の引用をみる。

(1950年)7月12日 雨(水)

 「八時半から十時まで警察大学校で『自治体警察論』を講義。十時半登庁、大橋国務大臣の招きで参議院で面会、今日から開かれた国会中の連絡について打合せ。
警察予備隊の問題については慎重な措置を要望しておいた。
 海原企画課長(海原治氏、元国防会議事務局)がGHQのGS松方氏より聞知したところによると、純然たる予備隊で警察行動は行わぬことが非常に判然とした」

7月18日 晴(火)

 「二時半に岡崎官房長官、大橋法務総裁が、GHQに公安課長プリアム大佐を訪ねて警察力強化に関する指示を受けてきた。
 国警側には、関係なしとして連絡がなかったとのことである。
 警察とは別の軍隊的のものとして政府直轄で設置せられることになるらしい。ただひたすらに国家国民のために立派なものを作り上げてもらいたいと念ずる---」

 著者は8月25日に「警察予備隊の人事局長に内定した」。

「私録 自衛隊史」の紹介(その2)

加藤陽三 「私録 自衛隊史−警察予備隊からこんにちまで−」 防衛弘済会 1979
(以下、「私録」)

保安庁が天災地変その他の災害で部隊を派遣できることになったのは、

米国陸軍工兵隊の例に習って、保安隊が国または地方公共団体の土木工事を引き受けて実施することができるようにした。(保安庁法第81条)

また、
保安庁法(第66条)で
「天災地変その他の災害に際して人命、または財産保護のため。。。要請により部隊を災害派遣できることとした。」

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http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/5761/rekisi2.html
自衛隊災害派遣の歴史(1950〜1979)_自衛隊の災害派遣について知ることのできるページ ...
8.1, 保安庁発足・保安庁法第66条に災害派遣が明記

災害派遣は警察予備隊発足の翌年(1951年)のルース台風による災害に対する救援活動から開始され現在に至るまで延々と続いている。災害派遣はすでに約32,000件、延べ730万人以上の規模で行われており、自衛隊史上最大の実績をもつ任務である

第1期
1950年代から60年代前半にかけて
防衛庁・自衛隊側は消極的であったが政府・政治家主導で積極的に行われた。
第2期
1960年代後半以降、都市部を中心にいわゆる革新自治体が各地に誕生し、。。、また大きな災害が少なかったため災害派遣に消極的な姿勢が続いた。
第3期
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自衛隊を理解するための文献や、災害派遣に関する基本的な資料・辞書類
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/5761/bibliography1.html


災害派遣関係の資料を見るための情報公開請求の方法
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/5761/bibliography2.html

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大日本帝國軍の場合

 法律や勅令で「災害派遣」という任務が与えられた。ということは今まで聞いたことがありません。ただし、軍事力として当然のことですが災害派遣に類似する行動は行われていました。

 関東大震災(詳しく知りませんが)や昭和10年の臺灣震災や大正3年の櫻島噴火に出動したことを確認しています。
http://www.geocities.jp/disasterreliefoperation/faq.html
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私録 自衛隊史」の紹介(その3)新入隊員の意識調査

加藤陽三 「私録 自衛隊史−警察予備隊からこんにちまで−」 防衛弘済会 1979
(以下、「私録」)

新入隊員の意識調査

「警察予備隊の編成が一応終わってしばらくした時期に、新入隊員の意識調査
をしたことがある。

その結果は
?親兄弟を愛するかについては100%、
?自分の郷土を愛するかについては約60%、
?自分の国をを愛するかについては約40%
がイエスであったという報告であった。

そこで
「増原長官を中心に林総監ら制服の幹部も交えてこの問題を検討し」
「旧軍と異なり、任務、使命の明らかな警察予備隊に志願で入隊した隊員であるので、
「急いで旧軍のように上から一方的に軍人勅諭や戦陣訓のようなものを作っておしつけることややらない。
「時間をかけて一般的な教育訓練を通じて、下から自発的に隊の指導精神として取り上げられるようなものが出てくる空気を作ってゆこう、ということであった。
私はこの方針をよかったと思っている。」

旧軍出身者が相当な比重を占めるとされる警察予備隊隊員の、
国をを愛するかについて、の問いに対するイエスがわずか約40%であったことは
大変興味深い。

今でこそ100%の回答が出る(ことはないだろうが)と期待されている自衛隊員の先輩たちに、こうした時期があった。

これも「私録 自衛隊史」の一面ですね。

「私録 自衛隊史」の紹介(その4) 戦車を飛行機で送らざるを得なかった

加藤陽三 「私録 自衛隊史−警察予備隊からこんにちまで−」 防衛弘済会 1979 (以下、「私録」)

反対勢力の妨害にあって、
ベトナム戦争に必要な数量の戦車を
飛行機で送らざるを得なかった

「昭和49年に米国を訪ねた際に、統合参謀本部議長のムーラー海軍大将と会談した。
彼は私が防衛事務次官をしていた昭和39年頃第七艦隊司令官をしておったので、当時は度々あう機会があり旧知の仲であった。
国際情勢から意見の交換を始めてアジアの問題に移った。

当時はベトナム戦争が戦われている頃であって、その話に移ったとき、彼は先般日本にある相模原の米軍補給廠から、必要な数量の戦車をベトナムに送る計画であったところ、日本国内における反対勢力の妨害にあって、遂にこれを実施することができず、やむなく米本国より必要なる戦車を期日に間に合わせるために、飛行機によってベトナムに送らざるを得なかった。

それで米国防省内においては、米国は一体なんのために日米安保条約を結んだのかという声が起こり、条約に対する不信感が生じた。

自分としては非常に残念である。日本が真に日米安保体制を維持しようとするならば、在日米軍基地の使用と機能を確保してもらわねばならぬ、と語っていた。」

ベトナム戦争当時、相模補給廠の門前でピケをはって、ベトナムへ戦車を送るな、という先輩たちのたたかいが、こういうふうに受け止められていた。


イヤ、実にけっこうじゃないですか?

「一体なんのために日米安保条約を結んだのかという声が起こり、条約に対する不信感が生じた。」

すばらしい。在日米軍の本質をついています。
やっぱり、アメリカの戦争をやるためだったんだ。

だから
「在日米軍基地の使用と機能を確保してもらわねばならぬ」と言われ、
自民党政府は、アジアへ「世界最強」の軍隊を送りつづけてきた。

それに、「歓迎されざるところに軍隊をおくつもりはない」というのも、ある意味で真実だ。

核空母も、爆音も、PCBも大麻も、「歓迎されざる」ものだ。
話が自衛隊から大分それた。。。


「私録 自衛隊史」の紹介(その5)戦地でのうらみを晴らす


加藤陽三 「私録 自衛隊史−警察予備隊からこんにちまで−」 防衛弘済会 1979 (以下、「私録」)

「終戦直後、私は内務省から命ぜられて神奈川県久里浜に出かけ、旧兵舎に数日滞在して南方から帰ってくる部隊の世話をし、それぞれ故郷に帰れるよう手筈を整える仕事をさせられた。

 今でも覚えているが、いよいよ明日は部隊を解散して各人が故郷に帰るという夜に、兵隊が上官をグラウンドに呼び出して、戦地での恨みを晴らす、という光景に何度か出くわした。」

その少し前に、こうある。

「昭和32年2月に、第3管区において80キロの夜間行軍演習の際、眠りながら歩いていた隊員を、指揮官がもっていた青竹でたたいた。その結果、死者2名を出した”青竹事件”。。が発生した。
 
 「この事件についての隊員の報告は、上官に対する非難を含んだものが大多数であった」

 「こんなことでは、いざというときにどれ程役に経つ部隊と言えるか、指揮官の教育ができていない、と感じた。」

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青竹事件でヒットはない。

広島県での夜間行軍演習に参加した陸上自衛隊第3管区第七連隊の隊員2人、心臓麻痺で死亡 2/6
という1件だけみつかった。
http://page.freett.com/anotoki_kokutetu/anotoki32.html

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 町田平和委員会前事務局長の白水さんも証言しているが、戦争末期に日本軍の指揮官が気をつかったことは、「前から飛んでくる弾だけではなかった」のだ。

 「青竹事件」以降も、隊内の凄惨なリンチとそれに起因する自殺などは、決しておさまったとは言えない。

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「過去5年間に自衛官295人が自殺」(毎日新聞 2000年5月9日西部版記事)
http://www.imagawa3.jp/onb.htm
「自衛官の自殺者数は、七0年代の年間二十〜三十人から九0年代は六十人へと倍増、中でも海自が突出している。」



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