もう一基が8月19日に・核兵器年表

After the twobombs dropped on Hiroshima and Nagasaki, another would be ready
for use on 19 August, and a fourth would be available by mid-to late
September.

13 Aug 1945, Hull and Colonel Seaman, t/c (NA, RG 165: OPD Exec. 17, Item
35-A, no. 1284-A)

原爆二基が広島と長崎に落とされた後、もう一基が8月19日に使用されようとして
おり、四基めが9月中旬から後半に使用可能になろうとしていた。

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新潟も次の原爆の投下予定地に入っている(実際本当に
米側は予定地に入れていた)

http://park12.wakwak.com/~tks/watashi.htm

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先の大戦末期、広島・長崎での原爆投下のあと、
次の投下予定地が新潟であることが判明し、当事の県幹部は職員を広島現地や内務省
に派遣、対応を緊急に協議して深夜に及ぶ激論が交わされました。そして、内務省が
新潟市の疎開に反対の意向であったにも関わらず、その意向には反する形で、「緊急
かつ徹底的な疎開」が決定され、実行に移された経緯が新潟にはあります。

 あの戦時下、統制的な政治体制のもとでも、そして戦争末期、政治や経済が大混乱
している中にあってもなお、住民に直接の基盤と責任を有する「自治体」には、当時
においても「平和力」が発揮されたという事実を、われわれはこのエピソードの中に
発見することができます。

http://www.jrcl.net/web/frame041018d.html


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<模擬原爆(パンプキン)>が富山にも落とされた 

  太平洋戦争末期、アメリカは日本に「原子爆弾」を投下する計画を進めていまし
た。
  投下目標都市は、京都・広島・小倉・新潟の4都市(のちに、京都がはずされ、
長崎が加えられました)でした。
  「原子爆弾」は、たった1発を、高度1万bから目視によって爆心予定地に投下
しなければならないので、その「リハーサル(予行演習)」を行う必要がありました
。それで、長崎に投下されたものと同じ型の爆弾(形が丸いので<ファットマ>と呼
ばれた)に通常のTNT火薬5dを詰めて目標値の周辺に投下する訓練が行われたの
す。
本物と区別するために黄色いペンキが塗られていたので<パンプキン(=かぼちゃ)
>というニックネームで呼ばれました。
  この「パンプキン作戦」は、爆弾の重さと形、飛行方法、目標への高々度での接
近、レーダーによらず目視による投下、投下直後の<150°の急旋回>などの点で
、本物の原爆投下と全く同じ状況を想定して行われました。

  新潟を目標にした訓練は、新潟・福島・富山各県などの大工場をねらって行われ
ました。
   1945年7月20日の朝、富山市北部の大工場をめがけて、3発の<パンプ
キン>が投下されました。
       
      目標工場           実際の着弾地           
             被害
    不二越製鋼東富山工場      富山市中田(現・中田公民館西、神社境内
)      ――――――― 
  日満アルミニウム東岩瀬工場   富山市森(現・岩瀬スポーツ公園西)    
    死者47人、負傷者40人以上
   (当時既に「昭和電工」、現・昭和タイタニウム)             
                 
   日本曹達(日曹)富山製鋼所    富山市下新町・富岩運河西岸      
     ―――――――
   (現・太平洋製鋼)                (現・富山製紙KK敷地) 
                ――――――― 
    
   これらは何れも目標を外れ、目標工場に被害を与えることはできませんでした
が、森地区に投下された1発が朝鮮人労働者の半場を直撃し、多数の犠牲者を出しま
した。
   米軍は、この日の演習が、雲が多かったこともあって不満足な結果に終わった
ので、再度、26日に演習することを指示しました。ところがこの日は20日よりさ
らに雲が多く、富山に向かった6機中、曲がりなりにも富山に投下したのは1発だけ
でしたが、それが大きく目標をそれて住宅地に落ち、大きな犠牲を生んだのです。

      目標工場           実際の着弾地           
             被害
   日満アルミニウム東岩瀬工場   富山市近郊・豊田集落(現・豊田本町) 
   死者16人、負傷者40人以上

   残る5機は目標を確認できず、マリアナ基地への帰途、“行きがけの駄賃”に
、焼津・島田・浜松・名古屋・大阪へ<パンプキン>を落として行きました。
   この、富山への<パンプキン>投下が、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下に、
直接に関わっているわけです。
   なお、<パンプキン>は、全国各地に50発とうかされているそうです。 

   最近、富山県内にも連合国軍の捕虜収容所(<POW>)が6箇所あったこと
が分かり、そのうち4箇所は上記富山市北部の工業地帯にありました。そして、2発の
パンプキンが2つの収容所の至近距離に誤って落とされたことが判明しています。
                                      
                
              以上
http://www.geocities.jp/toyamakushunokaii/introduction.html

「富山大空襲」のことを知って下さい!
    「富山大空襲を語り継ぐ会」の事務局

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核兵器年表
http://www.ask.ne.jp/~hankaku/html/nenpyou.html

1945. 5.10
米・第 2回標的委員会開催
[オッペンハイマー/パーソンズ/トールマン/ラムゼー/ベーテ/ロバート・ブロ
ード/ノイマン]
(ロスアラモス,原爆投下の技術上問題,無傷の都市を4つほど残す,京都/広島/
横浜/小倉)

1945. 5.25
米・九州進攻作戦発令
[マッカーサー/ニミッツ/アーノルド]
(オリンピック作戦,目標期日 11.1 と決定,関東上陸作戦はコロネット作戦,目標
期日 3.1)

1945. 5.28
米・第 3回標的委員会開催
(ポール・ティベッツ大佐参加,第 509混成部隊のキューバでのテスト結果報告,カ
ーチス・ルメイの日本爆撃は 1946.1 には完了してしまうと表明,投下目標は京都/
広島/新潟の 3都市)

1945. 5.30
米・スチムソン長官 京都を原爆投下目標より外すようグローヴスに指示
(日本降伏後の占領政策を考慮)

1945. 7.21
米・ハリソン長官 原爆投下目標に京都復活をスチムソン長官に要請

 1945. 7.22
米・スチムソン長官 京都の代りに長崎の追加を指示

 1945. 7.23
米・ハリソン長官 原爆投下は 8月1日以降なら可能とポツダムへ打電

1945. 7.25
米・トルーマン大統領 原爆投下指令
(グローヴス将軍が案を作成,スチムソン長官等がポツダムで承認,戦略空軍司令官
スパーツ将軍宛て,8月3日ごろ広島/小倉/新潟/長崎の内の1つに投下)

1945. 7.30
米・グローヴス少将 オリンピック作戦までに 10〜12発の原爆準備が可能と報告


 1945. 8. 6
米・リトルボーイ広島投下
[ポール・ティベッツ/ロバート・ルイス/トーマス・フィアビー/ウィリアム・パ
ーソンズ/モリス・ジェプソン]他
(8時16分45秒,12.5KT,60Kgのウラン235 ,総重量 4T ,4セットのレーダー高
度計付き,『エノラ・ゲイ』はティベッツ機長の母親の名前,前日命名,離陸後パー
ソンズはコルダイトを装填,死者は1945 末で 14万人,5年間で 20万人,死亡率 54
%)

 1945. 8. 7
米・次投下目標は東京と進言
[ファレル准将/パーソンズ大佐/パーネル少将]
(心理的効果大,ワシントンからの回答なし)

1945. 8. 9
米・ファットマン長崎投下
[チャールズ・スウィーニー/フレデリック・アッシュワース/フィリップ・バーン
ズ]他
(曇りで小倉は見えず長崎に変更,長崎上空で 20秒間視界が得られた,11時2分,
22KT,8Kgのプルトニウム239 ,総重量 4.5T,『ボックス・カー』,ソ連参戦2時
間後に離陸,目標から 3.4Km外れる,
燃料ポンプに欠陥が発見されたが離陸,投下後沖縄へ着陸し給油後テニアンヘ帰着,
死者は 1945末で 7万人,5年間で 14万人,死亡率 54%,

1999.7 目視投下命令に反してレーダー投下されたことをアッシュワースが語る,小
倉投下に失敗し原爆を海に捨てるよりはと決断)

 1945. 8. 9
日・深夜の御前会議にてポツダム宣言受諾決定

1945. 8.11
米・グローヴス将軍 2発目のファットマンについて報告
(プルトニウム・コアとイニシエーターは当初予定より4日短縮されて 8月12日/13
日にテニアンへ輸送可能,8月17日/18日に投下可能,マーシャル将軍は輸送を見合わ
せるよう指示)

1945. 8.12
日・ポツダム宣言受諾に関するバーンズ長官の返答を受領

 1945. 8.12
米・『スマイス報告』公開
[ヘンリー・スマイス/リチャード・トールマン]
(原爆の秘密の限界を公表,爆縮方式に触れず,大統領の承諾後発表,1946 出版)

 1945. 8.14
日・皇居の防空壕での御前会議
(ポツダム宣言受諾決定,勅語の用意を指示)

 1945. 8.15
日・無条件降伏
(玉音放送 『絶え難きを絶え忍び難きを忍び』,第 2次世界大戦の終了)







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