「共用化と横田基地の未来」と「核と横田基地の過去」と

米国のシンクタンク「ハドソン研究所」が昨年6月16日、都庁内で記者会見を開き、横田基地の共用化と基地の未来に関するレポートを発表した。

 タイトルは「共用化と横田基地の未来」。このレポート全体の日本語の翻訳があるかは不明。都庁担当者は「知らない」と電話で答えたが。

このレポートの冒頭の、状況説明(Background information)には、
核(nuclear)という単語が数回出てくる。
このシンクタンクはレポート作成には日本人も関与しており、相当日本の事情に詳しいはずだ。ところが、在日米軍の要、米軍横田空軍基地の役割についての説明で、堂々と核兵器および核兵器を扱う部隊について広言している。

 以下、素人の突撃翻訳である。
 「1964年に、九州の板付空軍基地の閉鎖に伴い、一ヶ戦術戦闘群が、F105DとKC-135機をともない、横田に移駐した。1965年に横田は、嘉手納空軍基地とならんで、米戦略空軍司令部の核司令・航空機統制の分散基地となり、日本近海で展開する米核装備航空母艦および核潜水艦との攻撃調整をふくむ、核戦争計画の司令と統制を実行した。
 ベトナム戦争(1965ー73年)の間、横田は、1967年からF-4ファントム攻撃部隊を迎えるなど、戦闘機基地としての役割を増大させた。
 1968年から1971年まで、これらの部隊は朝鮮の鳥山空軍基地に交替任務で飛来し、北朝鮮、中国、ソビエト同盟などの目標に対する核攻撃-警戒態勢を保ち、数機を15分刻みの核警戒態勢においた。
 1971年に、横田の戦闘機基地としての役割は、戦闘機部隊が在日米軍と在間米軍の全般的削減・再編の一部として移駐したのにともなって衰えた。同時に、横田は、ベトナム戦争で増大する敵対行為に面して、運輸ハブとして重要な役割を担った。




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